見出し画像

線を引く

コンテンポラリージュエリーの話をしよう。

私が従事しているのは、コンテンポラリージュエリーという自己表現や芸術表現としてのジュエリーだ。定義が抽象的であいまいであるだけに、何をコンテンポラリージュエリーで何がそうでないとするかは人によって意見がわかれるところで、すっきりと手短に説明できないのが分野全体の長年の悩みのタネだ。

何をもって芸術表現とするかは人それぞれなのだから仕方のないことなのかもしれないが、認識の統一を図れないというのはなかなか厄介なもので、ある作家がコンテンポラリージュエリーのつもりで作った作品を他のだれかがコンテンポラリージュエリーとして認めないなんてことも、当然起こる。また最近では、作っているものは自己表現や芸術表現のジュエリーであっても、コンテンポラリージュエリーのアート志向の強さに対する反発や苦手意識、あるいは引け目から、あえてコンテンポラリージュエリーという名前を避ける、というアンチ・コンテンポラリージュエリー的な作り手も出てきていて、事態はよりいっそう複雑になっている。

要はみんな、好きなところに線を引いている。私はこちら。あなたはあちら。あの人の線はダメ。この人の線もダメ。そうやっておのおのが思い思いに線を引く。気づけば足元はいろんな線がからまりあってぐちゃぐちゃだ。漫画でよく見る、悩みを抱えたキャラの吹き出しに描かれた線のぐるぐる。あのぐるぐるをうんと引き伸ばしてその上に立ってみんなで途方に暮れている。そんな感じ。

私は物書きという立場上、コンテンポラリージュエリーとは何なのか説明してほしいと言われることが少なからずある。要は、ぐるぐるを整理してだれにでもわかるきれいな線を引き、コンテンポラリージュエリーが何なのか、はっきりわかるようにしてほしいということだ。

そんなこんなで手短に説明しなければならないときは、冒頭でも使わせてもらった「自己表現や芸術表現としてのジュエリー」という言葉を出してその場をしのいでいるが、この定義づけにしても、最小限の言葉で最大限多くの作品を包括できるから使っているにすぎず、その中身がどのようなものか規定できるような種類のものではない(あえてそういう言葉を選んで使っているわけだが)。

だが考えてみれば、定義づけの難しさという悩みは、なにも頭にコンテンポラリーとつくジュエリーに限った話ではない。ちょうどこのテキストの執筆中に美術史家のマリアン・ユンカーの著書を再読していたら、ジュエリーというものからして定義が難しいというくだりがあった。もっと言えばジュエリーだけの話ですらない。コンテンポラリージュエリーがしきりになりたがってきたアートにしても「アートとは何か」と10人に聞けば10人から別の答えが返ってくることは容易に想像がつく。ジュエリーの近隣分野のファッションだってきっとそうだろう。

おそらくそれはどんな分野も同じことで、ひとことでわかってもらえる便利な定義なんてない。大勢の人の実践と議論がつみかさなって「だいたいこのあたりだよね」という了解ができ、時代とともに少しずつ更新されていくものだ。違うだろうか。

加えてコンテンポラリージュエリーは、芸術性というあいまいなものさしまで持ち込まれるのだから、話がややこしくなるのは当然だ。そもそもどんなジュエリーであれ、多分に芸術的であることはできても 100% 純然たるアートに振り切るなんてことができるだろうか。

コンテンポラリージュエリーにはアートジュエリーという別称があるが、この言葉を聞いたある友人が、アートジュエリーと言われると身につけることを想定しない鑑賞用のジュエリーをイメージしてしまうというようなことを言っていた。ジュエリーがアートに振り切るというのは、多分そういうことだ(ひとつ補足しておくと、コンテンポラリージュエリーの多くは身につけられることを想定している)。

100% とまでいかなくとも、あるジュエリーを取り上げて、そのアート成分が 30 だの 40 だのと数値化し、一定以上であればアートとして合格でそれに満たなければアート失格だなんて言うことはできないだろう。芸術「性」や芸術「的」というあいまいな基準をもってしてきれいな線を引くことは、土台無理な話なのである。

自身も作家でライター、キュレーターでもあるベンジャミン・リグネルはかつて、コンテンポラリージュエリーは何かという話で争点にされているのは結局、アイデンティティの問題ではなくイメージの問題だと指摘したが、その通りだと思う。コンテンポラリージュエリーは「アートとして見られたい」「アートとして認められたい」という、自意識過剰で承認欲求の強い分野なのだ。

大文字のアートから格下扱いされがちなジュエリーの立場を思えば、そのあたりに神経をとがらせるのは仕方がなくもある。私も以前はそうだったからわかる。アートとして認知されないことに腹を立て、アートかどうかを判定するありもしないものさしを勝手に作り上げ、作家や作品を頭の中で勝手に選別していた。

だが、いろんな作家や作品に触れ、話を聞くようになって考えが変わり、今ではその作品がアートかどうかというところより、どういう表現であるかを重視するようになった。私がコンテンポラリージュエリーを説明するとき「芸術表現」に加えて「自己表現」という言葉もセットで使っているのにはそういう理由がある。

表現という言葉は昨今ずいぶんカジュアルに使われているが、本来の表現は、その人が抱えるきわめて個人的な実感や違和感を形にしたものだ。ゆえに切実なもので、それがだれかに伝わり、ましてやわかってもらえるなんていうのは僥倖とも言えるほど稀有なことだ。

それを「デザイナーのアイデア」か「アーティストのコンセプト」で区別したり、そのふたつの間で優劣をつけるなんてできるだろうか。ちなみに私が知るなかで、この個としての実感や違和感を針先ほどの精度でもって形にしている作り手には、デザイナーの呼称を使う人もいればアーティストの呼称を使う人もいるし、どちらで呼ばれてもかまわないという人もいる。私が脳内アート判定をやめるようになったのはこうした人たちによるところが大きい。

そういう話をしていると、デザインとアートの両分野から盛大なお叱りが飛んできそうな気もするが、そこはひとつ、コンテンポラリージュエリーという特殊な分野の話ということで大目に見てほしい。またここで言っていることは私個人の見解にすぎず、分野の総意ではないので、分野全体の見識を疑うようなこともしないでほしい。

アートとしてのジュエリーという目標じたいが間違っているとは思わない。ただ、その目標設定は本質的な矛盾を抱えているために実現に時間がかかりすぎ、いつのまにか承認欲求がアイデンティティに分かちがたく組み込まれてしまった。それは必ずしも悪いことばかりではない。その葛藤が、コンテンポラリージュエリーでしか見られないユニークでおもしろい表現をたくさん生んだ。葛藤の振幅はそのまま表現の幅の広さだ。

だが私のような書き手にとって、この板についた承認欲求は、他分野の作家をコンテンポラリージュエリーの文脈に引き寄せて論じることを困難にする。違うフィールドのだれかをこちらに引き入れること。それは同じ承認欲求を共有する者として彼ら彼女らを扱うことと、私にとっては同義である。私は書き手として、分野を問わず個別の実践に着目し、その点と点をつなげて新たな文脈を見つけだす解釈の自由が欲しい。でもそのことが、相手に要らぬ何かを押し付けることを意味するのであればやりたくない。状況が変われば心境も変わるのかもしれないと思うと、これは留保付きの悩みではあるのだが。

そんなのは自意識過剰や思い込み、考えすぎだと言われれば確かにそうだろう。だが、コンテンポラリージュエリー史の連載を持たせてもらっているためでもあるのか、たとえ連載記事以外の場であっても私がジュエリーについて書くと、私がそのジュエリーをコンテンポラリージュエリーだとみなしているものと思う人が本当にいるので、単なる思い込みや考えすぎの一言では片付けられないようにも思う。

いずれにせよこれは、書き手として携わってきたひとりの人間の見解にすぎない。冒頭で触れたことと重なるが、どういう立場で関わるかで見方は変わるし、何をコンテンポラリージュエリーとするかはその人による。私の意見にうなずける人もいれば、そうでない人もいるだろう。

ひとつ言えるのは、全員が納得できる線の引きどころなんてどこにもないということだ。コンテンポラリージュエリーは、枠をつくってその中に収められるものとしてあるのではなく、領域と領域の間に広がる無限のあわいとしてあるものだ。ここまでしてきた話もそれをめぐって無数に存在する線の1本にすぎない。それは、私にとってのコンテンポラリージュエリーは何かという線の話だ。私はその線をここで終わりにする。書き手としていまより自由になるために。そして新しい線を引く。でも今度の線は、人と人とを隔てる線ではなく、自分がその上を歩くための線にする。そこでするのはジュエリーの話だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?