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絵画にダイブする

主宰するトークイベントに手話通訳者の方をお招きしたことがある。手話と言葉の行き来きとはどういうことなんだろうと興味をもって聞いていたが、僕が手話をできないだけにその感覚がなかなか掴めず、新しい日本語やカタカナ言葉はどうやって訳すんだろうと言葉の変化方法ばかり注目していた。しかし、話が深まっていくなかで、美術館の鑑賞ツアーを手話でやると面白いという話になった時に、自分の認識が根本から間違っていたことに気がついた。言葉と手話は、含まれている情報量が全く違ったのだ。言葉は例えるならテキストメッセージのようなもので、送信も受信も素早く簡単にできる。一方ビジュアルとして受け取る情報は少ないので(大袈裟なボディーランゲージを多用する人は例外かもしれないが)テキストデータから内容を想像するしかない。一方の手話は常に動画を送り合っているようなものだ。手話は手だけでなく顔の動きや身体の動く大きさなどが全てコミュニケーションの重要な一部と聞く。話は逸れるが、それゆえにオンラインでの手話コミュニケーションは顔の表情や人の仕草が伝わりにくく難しいそうだ。発信も受信も重いデータをやり取りするため、言葉に比べて素早くは動けないがその分解像度が高くなる。残念ながら僕は手話が出来ないので、その比較をすることはできないが、手話通訳者の方にも言わんとすることを理解してもらえたので大方合っているのかもしれない。いや、むしろそれは僕の誤解であっても言葉と手話は並列で並べるものではなく、違う解像度のやりとりをしているのだと思うと、その世界をますます知りたくなる。静かな美術館にある一枚の絵画の前に立ち、その絵画について数人の手話者と手話で話し始める。すると徐々にその絵画の中で自分が動いているように感じるというなら、きっとそれは全く違う美術体験になるんだと思う。生きているうちに一度でいいからそんな体験をしてみたいものだ。

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