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【かわいい】〈ちいさなお話〉

 あたしがあの男に出会ったのは偶然だった。初っ端などは、なんて小汚い毛皮だろうと身震いした。それが何を間違えたのか、あたしはあの男から目が離せなくなっていた。それはあれが全く動いていないように見えたからかも知れない。そう、全く動かなかったのだ。胸の上下さえ見えていたら、うっかり近づくこともなかっただろう。高みの見物を決め込んで、黒い奴らが集団でやってくるのを待ったかもしれない。それともすぐに興味を失って、側をはなれたってことも有り得たはずだ。だけど、そうはいかなかった。あたしはさっとあの男の側へ降り立っていた。でも側近くに寄る時には、細心の注意をもって静かに、そっと首を伸ばして覗き込んだ。その顔を見て、やっぱり死んでいるのかと思った。だけれども、どうだろうか、あの男は生きていて、あたしの気配に気づき、ぎろりと強い色を目に宿して、こちらを見たのだった。そして何が起こったかって?驚くことに、あたしたちは恋に落っこちてしまったんだ。汚らしい男はあたしを、あたしはその毛皮の下の肉と骨と血を、見えない両腕で胸に深く掻き抱いていた。あたしはだから、その汚い毛皮を繕ってやり、少しばかりの食べ物を運んでやった。男の方も気力が湧いたとみえて、みるみるうちに半分死んだ状態を脱していった。あたしは得意の歌を披露してやったし、男は温かな胸にあたしを招き入れてくれた。そうして時間は過ぎて、あたしは恐らく男にとって、とても可愛くなっていったのだろう。何故って、そりゃ、男の目が時折どうしようもなく鋭くなるのに気付いたんだ。ああ、こいつはあたしを食べたいと思っているんだと、そもそもの関係を思い出していた。男は悩んでいるようだった。あたしに近づくなって唸ったりもした。だけども、そうは言ったって、恋ってのは引き合うもんなんだから、離れるなんてしょうもない。あたしは艶のマシになった男の毛皮に足を下ろしては、その目を見下ろした。ああ、いとおしいか。あたしが、かわいいか。そんな目で嘴を差し出した。その時だ。がぶりと。あたしの小さな目には、銀色に見えた。鋭い牙が、あたしの喉に差し込まれたのだった。痛い、とか、怖い、とか思う暇なんてありはしない。男ははっとしたように、口を離そうとした。それが許せなくて、あたしは渾身の力で男の口の中に頭を押し込んでやった。食いやがれ。そう心の中で叫んだのが、きっと聞こえたんだろうな。男は喉を鳴らしていた。うすらぼんやりとしていく視界の中で、胸を打つ告白の音だった。願わくは、かわいいあたしの羽根の一枚も残してくれるな。それがあんたとあたしの愛の行く末というやつなのだ。

ああ、あんたもかわいい。


(7月の最初の文芸会に発表した作品です)

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