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うちの猫は


うちの猫は家で死ぬようになった。

昔の猫たちは、事故や、毒餌のために家に帰りつかなかった猫もいた。

なかには仲間の若い猫にリーダーを譲って去っていった猫もいた。

猫は仲間に死を見せないと言われてきたけれど、最近猫は家で死ぬようになったと思う。
うちの猫だけではなく。

それは、猫に傾けられる愛情が昔よりも重たくなったからじゃないかと思う。

私が子供のころは、猫はもちろん大切だったけれど、今のように家族のような、子供のような、というのが一般的ではなかったと思う。
愛情はあるし、関係も築かれるけれど、猫と人間の間にはきちんと違う生き物だという境目があった、ように思う。
思う、というのは自分の家以外に猫を大好きな家が周りにいなかったから。
飼っている家はあったけれど、犬を番犬として飼う、というのと同じようにネズミ避けとして飼っている家が何件かあったくらいだ。

それが何だかおかしくなっているな、と思うようになったのは最近かもしれない。
猫の寿命が延び、弱りはてた猫は自分の死体を隠すことが叶わなくなった。
それが悪いことなのかは分からない。本当に分からないけれど、私はそれが猫たちの魂を縛っているような気がして少し怖いと思っていた。

猫には、何にも縛られてほしくない。
猫だけじゃなく、どんな生き物にも、自分は人間に近い生き物だなんて思ってほしくない。
その素晴らしい生き方を引き摺られないでほしい。
犬の中には、この子は人間がいなくては死んでしまう、と感じる子もいる。
そんな生き物を作り出して売り買いしていることが怖くて、苦しい。

死に方を選ぶことが、彼らにもできたら。

私の家のおばあちゃん猫の冬夏ちゃんが今日死んだ。
内臓が弱り、三日に一回の点滴と一日二回の薬でなんとか命をつないでいた彼女。
やせ細りながら、柔らかい毛並みを私たちにこすりつけては鳴いたかわいい猫。
彼女は私の紅葉の子供の最後の猫だった。

母には何度か
「冬夏ちゃんの延命は考えたほうがいい」
と話した。
母は「よくなるかもしれない」の一点張りだったのだが、この前病院の先生に「もうここからの回復はないと思ってほしい」と言われた。
そこでやっと「冬夏ちゃんの命はもう延ばせない」と分かったらしい。
連休中、入院していた冬夏ちゃんを「今日、連れて帰ってきて、最後は家で過ごさせてあげようとおもう」と朝に迎えに行った。

母から私の携帯に画像が送られてきたのは三時すぎ。
冬夏ちゃんのそばに千紘くんが寝そべり、重たかろうに彼女は穏やかに寝ていた。

次の休憩に入った時には、冬夏ちゃんは息をひきとっていた。

彼女は、母のために長く頑張ってくれた。
自分のためではなく、自分を引き留める人間のために、彼女は最後をくれた。

死顔の写真まで母が送ってくれたので、私は休憩室でその穏やかな顔を撫でた。
かわいい冬夏ちゃん。
他の兄弟や、お母さんの紅葉がそばにいただろう。
千紘が少し心配だったかもしれないけれど、そんなにここにもう留まらなくてもいいよ。
いつでもかえってきたらいいけれど、もう何にも苦しませられず、美しいだけのものにかえっていいんだよ。
あなたにあった初めの日を覚えている。
紅葉は私の部屋の押し入れで巣をつくって(空箱のなかにいらなくなったセーターをいれてやった)その中で、あなたたちを産んだ。
紅葉は小さな猫で、子供の大きさで大人になってしまったような、いつまでも肩乗り猫でいられる子だった。
そんな小さな体であなたを産んだ。
他の家族に威嚇するなか、私にだけは少しだけ子猫を抱かせてくれた。
姉弟みんなに名前をつけた。
あなたと春秋だけは私の友人が付けた。
あなたを呼ぶとき、彼女のことも思い出していた。

あなたが家で目を閉じられてよかった、のかもしれない。
分からないけれど、あなたはけして後悔をして死んでいったのではなかったから。
すてきな死に方をありがとう。
いつまでもあなたの毛並みの柔らかさを、紅葉と同じ緑色の、きれいなアーモンドの形の目を覚えている。

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