「いつか君が恋をして」(ちいさなお話)
君が好きになったものは、全部覚えているんだ。
それは菫色の雲の棚引く時間。君が好きになった背の高い男の子は、眼鏡が似合っていて、焦げ茶色のベストをよく着ていた。あの公園のベンチは座る部分が木製で、雨が降るたびに弱くなっていくような時期があった。そんなベンチに座って、男の子は文庫本を広げていた。革のブックカバーは使い込まれていて、小さな金色のアルファベットが二つ、くっつけられていた。傾いた日がその金色に触れると、まるで音楽のような瞬きを生んだこと。君は、それを遠くから見つめて歩いた。落ち葉が足下にじゃれつき、顔見知りになった猫に追い越された。にゃあ、と声を掛けると不思議そうに猫は振り返った。そうやって猫と友達になりかけた頃、男の子は公園にやってこなくなり、君は散歩コースを変えてしまった。あの公園はまだ悲しい、と言う君の耳の形。それを大切にしまっている胸があることを、きっと君は知らないだろう。あの恋はとても静かに蕾を閉じた。猫の足音くらい静かに。
駅前の喫茶店にいた黒髪のうつくしい女性の、穏やかな口元の黒子を、君は好きになった。君ってやつは小さな好みに貫かれると、すぐにその矢を受け入れてしまう。少しも抵抗をしないんだ。突き刺さった矢の先で震える小さな羽を撫でながら、君は、はじめての感覚を味わう少年のような顔をする。もう何度もその感覚に身を沈めてきただろうに。君の容赦のない恋の速度に、きっと彼女はついては来られないだろう。そう思いながら、何度もあの喫茶店に通う君に付き合った。何度通っても、見つめる以上のことをしない君の向かいの席に座って、いったい何杯の紅茶を味わったのだったか。君の恋は、気まぐれに止む天気雨のようで、その小さすぎる衝撃で肩を濡らしながら、喫茶店の大きな窓にうっすらと映る君と、彼女を見ていた。小さな店の中を動き回る彼女を追いかけるには、大きすぎる動きで、君は視線を動かしていた。
どこで終わり、どこではじまるのか。君の恋の目次を書く役目を、名前もないうちに僕は仰せつかっていたのかもしれない。そう信じるくらい、君の恋のはじまりと膨らみ、そして終わりへと傾いでいく道のりを、付き添ってきた。君はうつくしいものに躊躇しないひとだった。その目が求める先には、確かに鮮やかな世界があった。白猫に恋し、海の煌めきに恋をし、夜に架かった虹の輪に恋し、探し求め、隣の誰かが淹れるコーヒーの音に恋をし、耳を澄ませ、静かな神社の御神木の隣で割れてしまった大岩に恋をし、頬を摺り寄せ、逞しい女性の肩に目を奪われ、青年の頬の白さに心を奪われて。君は、本当に恋をしていないと生きていけないひとだ。色とりどりの恋を、大小様々に、宝石のように鏤めた人生を、君は織り上げるのだろう。
だからこそ、恋を呼吸のように繰り返す君に、期待をする。いつか、いつか、いつか、僕のことを見つめること。
君の、恋の一片に僕はなりたい。
(2023.11.25文芸会にて発表したものです)
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