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1・18(日記 詩学舎でのこと)

1月の詩学舎のこと。

今回は体調不良の方もいらっしゃって、
いつもよりも少ない人数
(といっても、前回は参加されていなかった画家の方が参加されたりしたので、前回と同じ人数な気がしました)
ではじまりました。

今回発表の詩のお題は『光』。

私の出した詩はこちら。

迷うことも 苦しむことも
光が見えないからじゃない
光が見えるから
ゆらり 小さく揺れるものだから
ただ一点の 美しさを刺すから
ひとは迷い
苦しむのだと

迷い描いた 私の光
苦しみ紡いだ 私の怒り
誰の目に それが光とは映らなくても
これは私に根差した灯火
この一点から指し示す
私の行方を 私の前へ
ただ生へ 私の生へ

生きて死ぬ光
それが私の光

「ひかり」

先生からの評価は、
「私」をつかい過ぎていることが気になるけれど、
表現として力強いものをあえて使っている最後のところなどは、
覚悟のようなものを感じる、と。
もう一人の先生からもやはり「私」の使いすぎを指摘されました。

でもこれ、「私の」以外に思われたくないのになぁ、、、と思ったり。
やっぱり詩は一番直すのに抵抗を感じてしまうようです。
自意識の強さなのか、我の強さなのか。
意固地になっているのか、こだわりなのかの線引きってどうしているんだろう、と毎回思います。
推敲の大切さを今回も言われました。
推敲、、、それも結局どこまでなのか。
一応この詩も何度も読み返し、何時間とかけて(書いたのは数分ですが)したのだけれどなあと。

あと、
つよい言い切りの書き方をしたので、
年齢が上の方の多いこの会では反感を持つ方がいるかもしれない、
と思っていましたが、
やっぱりいらっしゃいました。
「あなたはこんな風に書いているけれど、
本当に思っているの?と疑問に思った。
文章はきれいに整えているけれど、
その年齢でこんな風に思うのかと」
(文章で書くよりも言い方は柔らかでした。
ちょっと茶化すような)
先生に「どうですか?これって私の僻みでしょうか?」
と聞かれ、先生が「僻みですね」と切り返してくれて、
ちょっとした笑いを沸かせて区切りがつきました。
それにしても、
本当に思ってるの?
なんて詩にとってなんの意味がある問いかけ何だろうなぁと思うのです。
全部嘘であったって、届いたひとの心で開いたものが全てですから。
(とか言いながら、こうして書いてしまうあたり引っ掛かってるのでしょう)

詩学舎が終わってから、
唐突、というのか、待ってました!という力強さで野口先生に
「で、詩60編持ってきた?」
と聞かれ、
持ってきたものをお渡しすると
「うんうん、じゃあ、これを半分くらいずつ分けて祥子先生と30編ずつ選ぶね。
そしたらその30編の順番をきめよう。
それと同時に出版関係のところにも“こういうのを出そうと思ってます”って話をしておくし、印刷するところもいいところを探しておくよ。
それで賞の選考の先生にもあなたのことを知ってもらわないといけないし、
こんな人がいるんですよ!と知ってもらうために新聞の詩の投稿欄に半年くらい送り続けてね」
と、言われました。
出版関係、と聞こえたのですが、
え?私まだ出すって言ってませんよ?
先生??
と思いつつ、
先生の熱意に押され
(そして祥子先生とのお話もあったようなので遠慮も出て)
何も言えないまま、新聞に投稿することだけ約束して帰ってきました。

まぁ、まだ2編しか読んでいない先生方なので、
60編読んでどう感じるのかは分かりませんし、
もう次の詩学舎のときに聞こう、、、と家路に着きました。

次の詩学舎で読むのは『弱さ』というお題。
宿題は『嘘』となりました。
楽しそうなお題で「ふふふ」と口がにやけてしまった帰りの車の中でした。

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