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川柳雑誌「風」第133号

痛風とパントマイムは似ているね  飯島章友
川柳雑誌「風」で選句をされている佐藤美文さんの作風からすると、けっして一読明快とは言えないこういう書き方はどうなのかな、という不安がちょっとありました。そう、この句が浮かんだとき、何か整合性めいたものがあったわけではないんです。ただただ直感として浮かんで来て。いくら詩文芸とは言え、そんないい加減なまま川柳を提出していいのか!? という思いもありました。ところがなんと! 美文さんが句評欄でこの川柳を取り上げてくださったんです。だから、けっこう愉しんでいただけたんだと思います。

一読明快ではないとは言いましたが、今から見ると、まあ二物衝撃としては標準レベルですな。難解でも何でもない。深層でのつながりはわりと容易にイメージできます。でも、作句したときは確かに整合性が見出せなくて不安だったんですよ。面白いと思うのは、私の経験から言うと、すごく考え抜いた末にできた作品って、句会でも歌会でも評価がかんばしくないんです。「すごくこだわって作ったのに……」と不服を表明する作者を見たことだって何度もあります。でもね、綿密に設計したものが認められるとはかぎらない、というところに詩文芸の美質、あるいは本質があるのかもしれないですよ。

お笑いのグランプリめく都知事選  〃

告示の1か月半くらい前に作った川柳です。これまでの都知事選の傾向や、立候補しそうな人たちのキャラクターを見て予想したものです。一側面としてはこの通りになりました。まあ、少なくない人が予想していたことなんで、内容じたいはたいしたことありません。でもね、作者としては予想を句にするのがわりと楽しくて、たのしみながら書いた川柳です。私はたまに結果が出ていないことを川柳や短歌にします。作者が楽しいだけかもしれず、創作姿勢としていいかどうかは分かりません!

ハローワークは占いに似る  〃
当たるも八卦当たらぬも八卦。不況が30年もつづけば仕事探しは占いみたいなもの、という感じの句かもしれませんね。これなんかは既成の吟社川柳の範疇におさまる句だと思います。川柳スパイラルに掲載される句とは書き方が違います。でもね、私は現代とか伝統とか時事とか、あるいは川柳とか、俳句とか、短歌とか、そんな区別がどうでも良くなってきたんです。私の川柳句集『成長痛の月』にたいして「俳句としても読める」的な評をいくつかいただいたこともあります。

実際これまで私は、短歌・川柳・俳句・七七句のほか、連句、五行歌、都々逸、雑俳に触れてきたこともあって、いろいろなタイプの作品が自然とできあがるんです。私はもともとパスティーシュが得意。たとえば江戸川柳風の川柳を作れ、前衛短歌風の短歌を作れ、などと言われれば、結構それらしく作ることができます(ギャラを貰えればそういう仕事をしてもいいですよ、なんてな)。だから川柳雑誌「風」へは川柳らしくない作品も送っています。たぶん佐藤美文さんも困惑されたことがあったことでしょう。でも、美文さんの選があるので、あまりに枠を外れた作品は掲載されません。選によって基準とか塩梅を勉強させていただいている次第です。

パスティーシュで思い出しましたが、タモリさんって職業人模写をすることがありますよね。ベテランの屋台ラーメン店主とか、地方から出てきたばかりのタクシー運転手とか、振られればすぐにそれっぽく模写できるんです、あの方。川柳の余興でそういう企画をしても面白いですね。題詠のとき、みんなで川合大祐風に作り合うとか。

お辞儀のさなかゴミを見つける  〃
私は「短歌現代新人賞」というのをいただいたことがあります。どちらかと言うとアララギ的な作風が集まる賞でした。写実・写生のリアリズム的な書き方ですね。だから、今でも掲句のような「描写」に徹した書き方はとても大切にしています。窪田空穂の〈湧きいづる泉の水の盛りあがりくづるとすれやなほ盛りあがる〉(『泉のほとり』大正七年)は、私が定期的に見返す短歌です。こういう書き方の何が良いかって言うと、饒舌じゃないところなんです。お気持ちをいちいち作品で表明しない。

ところでね、描写を作品として成立させるのって実はとても大変なんです。適切な情景や状況を選ばないと「ただごと」にしかならないからです。「描写」でどのように川柳を作るか。森山文切〈一斉に開く告別式の傘〉(『せつえい』)はその成功例として記憶に残っています。