変身ポーズ_t

最終話/全9回 小説家・小林敏生の変身

これまでの話/主人公・小林敏生は5歳のとき結婚の約束をした井上安子のことが忘れられずにいた。安子が井上エリスと名前を変え、人気女優になってしまったからだ。一方敏生は編プロに勤めながらスーパーヒーローの小説を書く、冴えない日々を送っていた。鬱々とした生活の中、敏生は何度も繰り返し同じ夢を見てしまう。5歳の敏生はファイブレンジャーレッドになって安子を迎えに行き結婚する約束をするが、井上安子が最後に何と言ったのか敏生は思い出せない。そんなとき、インタビューの仕事を通じて二人は11年ぶりに再会するが、敏生は自信のなさから名乗り出ることができないのだった。

 俺は夢を見ていた。昨晩もソファで寝落ちしてしまい、身体中ががちがちに固くなり、立ち上がって歩くこともままならなかった。ガラステーブルの上にはノートパソコン。昨日も小説を書きながらの寝落ちだった。そこには、誰にも読ませる当てのない、俺だけのスーパーヒーローの小説がある。昨日は小説の続きを夢に見た気がする。満月の夜、主人公のヒーローが総武線とバイクで並走するアイデアは使ってもいいかもしれない。夢の中に、またもや5歳の井上安子が出てきた気がする。最後に彼女が何と言ったのか、やっぱり今回も思い出せなかった。


 俺はテーブルの上に出しっぱなしだったミネラルウオーターに手を伸ばした。リモコンでテレビをつける。


「続いては芸能ニュース。女優の井上エリスさんが事務所移籍です。」


 お昼の報道バラエティ番組の時間だった。派手なセットの中で、アナウンサーがタイムリーなニュースを煽るように話している。ああ、そういえばあんまり事務所とうまくいってなさそうだったな、と俺は寝ぼけた頭で思い出す。


「移籍後の次回作は、まさかの『超越戦隊スーパーファイブ』の紅一点のスーパーピンク役。CM女王の名を欲しいままにしていた実力派女優の、まさかの身体を張った役どころへの挑戦に芸能界が騒然となっています。移籍前の事務所とのトラブルがあったのでは、と噂されています」


「え…」


『としきくんがファイブレンジャーレッドになるなら、やすこはファイブレンジャーピンクになる。ぜったいおむかえに来てね。あんまり待たせたら、やすこがとしきくんをむかえにいっちゃうからね』


思い出した。井上安子が最後になんと言ったのか。
俺はスマホでEメールアプリを立ち上げた。ガラケーからスマホに変えてから、ほとんどガラケーの時のアドレスは使っていなかった。でも、アドレスは変えていない。変えられない理由があった。久しぶりに立ち上げた受信ボックスには、おびただしい迷惑メールに紛れて、井上安子のアドレスからメールが一通。


『久しぶり。ニュース見てる?突然だけど、スーパーヒロインになりました! 敏生くんを嘘つきにはさせないよ(ハート)』


「何だよ、仕事選べよ…」


 俺は思わずこぼした。顔がにやけるのを止められなかった。おそらく今この国で一番かわいい女の子からのメール。ハートマークの絵文字が付いてる。だが気持ちが高まる一方で、胸の奥でぞわりと何か黒いものが動いた。それは、眠っていた黒い昆虫が長い六本脚で歩き出した薄気味の悪さに似ていた。それには覚えがあった。親父が死んだ理由を思う時と、自身が変わりたい変身したい理由を考える時のもや。


結局俺はいつまでも、井上安子へのメールの返信を打てないままだった。いつまでもそのもやが邪魔をして、スマホの画面を見せてくれないのだ。

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