今後”本荘ごてんまり”の定義はどうなるのだろう

こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。

かつて本荘の”ごてんまり”は、江戸時代の御殿女中達が遊戯用の手まりとして作ったのが始まりだと言われていましたが、最近では江戸時代の本荘に何らかの手まり文化があったという記録はなく、本荘のごてんまりは昭和36年に行われた国体をきっかけに有名になったものであると、昭和の時期に焦点をあてた説明が一般的になってきました。

御殿女中説は市と県がこれを”正統”な歴史として喧伝し、50年以上にもわたって市勢要覧や観光パンフなどに転載されることによって、民間にもすっかり浸透してしまいました。
今では『秋田大百科事典』に掲載されているようなごてんまりの説明は、かなりの部分虚構であることが分かっています。

御殿まり ごてんまり
本荘市に伝わる民芸品。モミ殻をシンにした紙の球を作り、その上に色とりどりの手芸用組み糸を太い針で縫い込む。
多種多様な糸模様の美しさが特徴。現在はぶら下げておく装飾用だが、本来は遊具だった。一六一三年(慶長十七)本荘城に移った楯岡豊前守満茂の御殿女中たちが遊戯用のまりとして作ったのが始まりとされ、当時は、ゼンマイの綿を詰めた球に絹糸を使った。藩政時代からの糸模様としては、菊模様、キツネの迷い道、三つ割り、四つ割り、六つ掛け、クモの巣掛けなどがある。菊模様は、球を一六等分して縫う一六掛けから描出される一六弁の菊花模様。本荘市周辺の農村主婦が内職に作っている。御殿まりは全国各地にあるが、まりの三方に白い房が下がっているのは本荘の御殿まりだけ。毎年、十一月に本荘市で、全国御殿まりコンクールが開かれる。〈佐藤正〉
『秋田大百科事典』秋田魁新報社 昭和56年 p.341-342

まず、「一六一三年(慶長十七)本荘城に移った楯岡豊前守満茂の御殿女中たちが」以降の歴史的説明は、上記に書いたように全て間違いです。
「当時は、ゼンマイの綿を詰めた球に絹糸を使った。」以降の説明は、おもに豊島スエノさん、大門トミエさんなどが受け継いだ木妙尼由来の「かけまり」に関するものです。(注1)
「かけまり」は確かに本荘市内にある地名、石沢鮎瀬で受け継がれていました。
昭和39年頃には、伝統の製法を180名が習得するなど、木妙尼の伝統を受け継ごうとする機運が高まっていました。(注2)「本荘市周辺の農村主婦が内職に作っている」というのは、この石沢鮎瀬の事例のことを指しています。
しかし石沢鮎瀬のまりが「藩政時代から」あったかどうかは定かではありません。豊島スエノさんの年齢から考えておそらく「藩政時代からあったのだろう」と考えられているだけです。
長年本荘市史の編纂に関わった今野喜次さんは、「ごてんまり」に関する資料は、「江戸時代はもとより、明治・大正・戦前の数万点を越える市史資料にも出てこない」(注3)と述べています。

『秋田大百科事典』の「御殿まりは全国各地にあるが、まりの三方に白い房が下がっているのは本荘の御殿まりだけ。」はその通りです。
新井智一『ふる里の手毬』1990年に全国各地にあるまりの分布図が載っているのですが、(本荘郷土資料館に実際にこの資料があります)その分布図を見ると「ごてんまり」と名の付くまりは、「本荘ごてんまり」「鶴岡御殿まり」「尾花沢の御殿まり」「松江御殿まり」があります。
その中でまりの三方に房が下がっているのは本荘のごてんまりだけです。

わたしはこの「三方に房の下がっている」という特徴が”本荘ごてんまり”のアイデンティティそのものだと思い、今まで”本荘ごてんまり”という言葉を使ってきたのですが、もしかすると今後その特徴すらも本荘ごてんまりの定義から外されるかもしれません。
こちらの由利本荘市観光協会事務局がYoutube上に投稿した動画をご覧下さい。

古の時代より、世代をこえて

第52回全国ごてんまりコンクール(2021年)の会場レポートまでは「本荘ごてんまりとは」というコーナーがありました。
そこでは「古の時代から」手まりはあったんだ、つまりウチの地域には古くて立派な伝統があるんだぞという自負とともに、「秋田県由利本荘市に伝わるものは三方に下がった房が特徴。」と、本荘ごてんまりの外見的特徴を説明する一文がありました。
しかし第53回全国全国ごてんまりコンクール(2022年)の会場レポートではそのコーナーはなくなっています。

動画自体は長くなりましたが、第52回まではお粗末ながらもあった歴史的説明もなくなり、本荘ごてんまりに関する説明そのものが全てカットされました。
さらに気になるのは、まりの三方に房が下がっていなくても、房が一つも付いていなくても、「これは本荘ごてんまりだ」と言う人が増えてきたことです。
全国ごてんまりコンクールに来場すると『第○回 全国ごてんまりコンクール 出品者名簿』という冊子がもらえるのですが、そこでまりの種類を【本荘ごてんまり】としながらも、形状を【吊り】でなく【置き】にしている人が結構います。
つまり、まりに房が付いていないから【置き】まりにできるのです。

三方に房が付いていないなら本荘ごてんまりじゃないだろうと思うのですが、今後こういう人が増えていったら、三方に房のないまりも”本荘ごてんまり”として扱われるのが普通になっていくのかもしれません。
かく言うわたしも、三方に房のないまりに「本荘ごてんまり」という言葉を付けて宣伝するやり方に一役買ってしまったことがあります。

さとぴあ

まりの画像自体はわたしが送ったものですが、先方さんによる編集でこうなりました。
あまり目くじら立てて言うのも何だかなァ…と思って、表記の変更をお願いしてはいないのですが、こういうところから本荘ごてんまりの定義は少しずつ変わっていくのかもしれません。

もともと「本荘ごてんまり」という名称は、秋田市の「田中企業」による発案だと言われています。
はっきりした時期は分かりませんが、斎藤さんらのグループが作った手まりを買い取ってお土産品として販売する際、「せっかく本荘の人たちが作っているのだから“本荘ごてんまり”としたらどうか」ということになったそうです。
本荘ごてんまりについて – 由利本荘市観光協会 (yurihonjo-kanko.jp)

その名称の時期が昭和39年より前のことだったか不明ですが、もしかすると当時は房のないまりを指して「本荘ごてんまり」と名付けたのかもしれません。
昭和39年頃に斎藤さんらのグループによって、三方に房のついたまりが開発され、全国でもここだけという意匠がもてはやされるようになり、本荘ごてんまりと言えば三方に房のあるまり、というイメージになっていったのでしょう。

ごてんまりの歴史自体が過渡期にある今、今後本荘ごてんまりの定義がどうなっていくのかも気になるところです。
わたし個人の思いを言えば、「御殿まりは全国各地にあるが、まりの三方に白い房が下がっているのは本荘の御殿まりだけ。」なのだから、その独自性を今まで通り誇っていいのではないかと思います。
そして全国でここだけの意匠を作り上げた人たちの実績と頑張りを、もっと評価するべきだと思っています。


(注1)昭和37年5月23日『秋田魁新報』の記事では大門トミエさんが紹介されている。「製法は、シンに山菜のゼンマイ綿を使う。これは直径三センチから四センチぐらいにかたくまるめ、綿糸で球形にかたくしばりあげ、その上を色とりどりの絹糸いまではこれにレース、毛糸などで幾何学模様などをあみあげるもの。」という説明がある。
(注2)昭和39年2月15日『本荘時報』の記事では、石沢婦人会が行った第二回ごてんまり講習会の内容が紹介されている。
(注3)今野喜次「本荘八幡神社祭典と傘鉾―傘鉾の復活を願って-」『由理』第三号 2010年 本荘由利地域史研究会 p.37


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