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ゲームと童心

新型コロナ流行の脇で密かに進むのがゲーム制限条例。
https://biz-journal.jp/2020/03/post_146500.html

これは秋田県大館市だが、香川も条例の制定に動いているらしい。子どもに危機が迫っている。

正直怖いのは子どもよりも大人のゲーム依存では、という気がしなくもない。電車に乗っている人でもサラリーマンの方がスマホのゲームやっているし、子どもはむしろ本を読んでいる子の方が目立つ。あくまでも主観だけれど。


そんな僕は子ども時代、めっちゃゲームをやっていた。休日は8時間ぐらい。空いた時間はひたすらゲーム。もちろん始めのうちは家の中でもゲームの制限時間はあったが、それもだんだんとうやむやになった。夜には布団の中でライトを照らしてゲームボーイをやったりしていたから、親からはこいつに制限をかけても無駄だと思われたのだろう。

目に相当負担をかけていたが、いまだに視力は裸眼で0.8はある。良くはないが、悪くもない。両目で0.7を下回ると運転できないので、裸眼で運転できるギリギリ+αといったところ。

色々なゲームをやるより、一つのゲームを極めたがるタイプだった。ドラクエ3(ゲームボーイカラー版)ではパーティーを全員賢者にしたし、FF8ではジャンクションを全て(バグを使って)アルテマにして、リメイクされたテイルズオブデスティニー(PS2版)は三周クリアし、最終的にはレベルを120以上まで持っていった。ちなみにテイルズオブデスティニー2は4周以上した。
…色々なゲームをやって、それぞれ極めたがるタイプだったのかもしれないな。

制限プレイは嫌い。むしろ強くできるところまで強くして、サクサク敵を倒していく時の方が好きだった。強くしすぎて後悔したゲームもあったが(特にFFXでは感動的なはずのラスボス戦が台無しに)。

学校にいる時も、どうやってキャラクターを育てていくかということばかり考えていた。愛読書は攻略本。Vジャンプ系の攻略本はダメだ。情報が薄すぎるし、「この先もつづく」というようなことが書かれてストーリーの途中で情報が絶えてしまう。自分で探索する楽しみを残してくれたのだろうが、こちらとしてはその探索の労力を省くために攻略本を見ているのだからお話にならない。

だからアルティマニアとか、分厚いやつを買っていた。高かったけれど。育ちの良い子は図鑑を見ていたというが、僕にとっての図鑑はアルティマニアだった。攻略本を見ているだけでも幸せな気持ちになれた。

ゲームのために早起きもした。5時半ぐらいに起きて小学校に行く直前までゲームボーイのドラクエ3でラスボスのゾーマを倒した。ギリギリで勝った、あの達成感は忘れられない。それにあれほど晴れ晴れとした気持ちで学校に行ったことは後にも先にも無かった。

寂しいやつとは思わないでほしい。

ゲームのおかげでいろんな人と仲良くなった。小学校の頃は友達のお母さんが何人かゲーマーで、会うたびにドラクエ3の攻略法を聞いたり、ドンキーコングの攻略を手伝ってもらった。中には友達よりも仲良くなってしまったお母さんもいたぐらいだ。

中学校ではFFの話で隣にいたやつと仲良くなった。中高は一貫で、6年間同じ学校に通った。クラスが一緒だったのは最初の二年間だったが、不思議とその後も仲が続いた。仕事をするようになっても定期的に会っている。向こうは大阪(神戸だった気もする)、こっちは東京だが、それでも年に一回は会えている。全部が全部ゲームのおかげだとは思わないが、大きなきっかけだった。

最近ふとゲームをやってみようかなと思い、PS4を買って何個かやってみた。けれど以前ほど極めようとも思えないし、途中でやめてしまうものもあった。やっている内に、なんだか虚しさがこみ上げてきてしまうから。

「あれ、俺何やっているんだろう」と。やっているというよりは、やらされている感覚になってしまうのだ。

それに、デジタルなコンテンツに経験値という「エサ」を与えて育てていくことにも不毛な感覚を覚えるようになってしまった。デジタルなものよりも自分というリアルな存在に知識や経験といった「エサ」を与えなくてはいけないのでは、と思ってしまう。

「昔のゲームの方が面白かった」なんて言いたくなる老害化現象が自分にも起きている。確かに以前のドラクエとかFFとかは面白かった。でも、それよりも純粋にゲームを楽しむ心を失くしてしまったのかもしれない。


今度はFF7のリメイクが出るらしい。買いたい。やりたい。でも心から楽しめるか分からない。

それでも、発売前のそわそわする感覚だけは今も忘れてはいないようだ。

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