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宛先のある書評を書いた。
久しぶりにnoteを書いた。
昨日の夜のことだった。書くのは楽しいな、と思いつつも夜も更けてしまったので一度PCを閉じることにした。
朝、途中の原稿を下書き保存するのを忘れたことに気づく。原稿が無くなったしまった。
「こういうところなんだよな」
ちょっと自虐的になりつつも、これが仕事の文章とかで無くて良かったとホッとするような気持ちも正直ある。
昨日はちょっとした会で配布するニュースレターのようなものに書評を書くことになった、という話についてだった。
他のブログでも「書評」とつけて読書感想文的なものを書いていたけれど、実際に書評とは何かというのを改めて考えさせられた。
というよりも、考えて分からなかったので本を読むことにした。
豊崎由美さんの『ニッポンの書評』(光文社新書)というおあつらえ向きのものが、kindleの読み放題にあった(読み放題、解約したつもりだったのがそのままだった)。
著者いわく、本の後押しをするのが書評の役目なんだそう。それに対して批評は伴走者に例えられていた。書評は作品を読んだ上でどう感じたか、というよりはそれを読んだ人が本を手に取ってみたくなるような、いわば間主観的な営み(この言葉自体、著者は使っていないけれど)のようだ。
後押しか。
「書評」という言葉に今までそうしたイメージを持ってこなかった。どちらかというと読書感想文に近い印象(ブログの書評は基本的にこれじゃないか)。
大学の書評はまた違う。これは批評に近い。論文に投稿されているような書評論文などは批評で、書評に対する応答が論文として掲載されることもある。
こうして見たところ、書評というのは人によって位置づけが色々あるということに気づかされた。
読書感想文よりなのか、それとも批評よりなのか。
『ニッポンの書評』で豊崎さんは「書評自体が一つの文芸的な価値を持つ」というようなことを言っていて、書評の独自性を主張している。
こういうことを踏まえて、どんな書評を書きたいか。
やっぱり本の後押しをするような書評を書きたい。そう思った。
まだその本を読んでいない人が僕の文章を読んでくれる訳で、少しでも興味を持ってもらってその本を読んでもらう。その方が文章が「生きて」くれるような気がしたから。
それでも書き出しは相当困った。書きたいこと、言いたいことは色々あるけれど、どれもがその媒体にふさわしいものとは思えなかった。届く先の人の顔が見えている分、難しい。
自己中心的な文ばかり普段書いているツケか。
今回書評を書いてみて、誰かに伝えるということの難しさと、その楽しさも少し分かったような気がする。
誰かに宛てて書いてみる。
直接顔を合わせない時代だからこそ、これが大事なセンスなのかもしれない。
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