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「クリスマス」ではメリークリスマスを言わない?


初めて「クリスマス」に参加してきた。

クリスマスとはChristmasと書き、「キリストのミサ」という意味がある。ミサとはカトリックの祭礼だ。もっとも、イエス・キリストが誕生したのは全然違う時期だったとも言われている。この時期にはキリスト教が拡大していく過程で取り込んだもののようだ。

つまり、字義通りのクリスマスとは、教会で行われるイエス・キリストの誕生を祝うミサだ。信者ではないが、ずっとこのミサに参加してみたいと思っていたところ、教会に縁のある友人から紹介してもらうことができた。


参加した教会は、場所は西麻布にある、カトリック麻布教会。「赤のれん」というラーメン屋の近くの路地に入るとすぐにある。アーチや塔がちゃんとある教会はこのあたりだと多くはないようだ。


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中に入ると、思ったよりも和やかな雰囲気だ。信者同士のつながりなのか、「久しぶり!」という声も聞こえてくる。

時間になると、教父(神父)さまの入場になる。歌を歌ったり、詩を読んだりして式次第は順調に進んだ。

式の途中には説教の時間があり、教父さまのお話をしてくれる。
話の内容は、クリスマスプレゼントも、ケーキも、ツリーもクリスマスの主役ではなく、イエスこそが主役であり、イエスの光を心に宿すことが大事なのだ、というもの。もっと厳かで、とっつきにくいような話をされるのではないかと思っていた別に堅苦しくなく、とてもユーモラスな様子で好感が持てた。


その後も式は進んでいき、最後は神父さんがパン(のようなもの)を配ってくれる。参加している人は前の方に進み、順番に受け取っていく。ただ、このパンを受け取れるのは洗礼を受けている人のみだ。洗礼を受けていない私のような一般人は頭に手を当てられ、祝福の言葉をかけられる。

ミサが終わり、外に出るとココアが振舞われていた。風が強く寒い中、甘く暖かい飲み物はありがたい。

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周りの参加者同士は顔なじみも少なくないようで、頻繁に挨拶を交わしていた。

初めて宗教的なクリスマスに参加することができて、感慨深い気持ちになった。イルミネーションやらクリスマスディナーやらに躍起になるよりも、よほど良いのではないだろうか。

だが一つ、疑問が残った。それはお説教の時間、教父さまが最初に言った言葉だ。

最初の言葉は「降誕祭、おめでとうございます」だった。
「おめでとうございます」という言葉の意味はわかる。イエス・キリストがこの世に生を受ける(カトリックではもう少し違う言い方をするのかもしれない)ことは、信者にとっては間違いなくめでたいことだ。

「クリスマス」の違和感

個人的に引っかかったのは「おめでとうございます」という言葉自体ではなく、「メリークリスマス」が言われなかったことだ。荘厳な雰囲気の中のメリークリスマスはどんな感じなのだろうか、と期待して参加していた分、やや裏切られた感じがした。
そして最初の言葉だけでなく、この後もずっと式中、式後にも「メリークリスマス」という言葉は聞こえてくることはなかった。参加者同士の間でも、だ。聞こえてくるのは「おめでとうございます」だけだ。まるで新年の挨拶みたいだ。
実際にヨーロッパなどのクリスマスは1月の第1週ぐらいまで続くらしい。新年もまだクリスマス、ということらしい。
でも、どうしてメリークリスマスを言わないのだろうか。単純に日本人向け、ということもあるかもしれない。

メリー(merry)という言葉を調べてみると、「陽気な」とか「楽しい」といった意味が出てくる。楽しいクリスマスを!というのがこのメッセージの意味なのだ。確かに、教会で「楽しいクリスマス」というのは似つかわしくない表現にも思える。

でも、ミサが終わってからぐらい、メリークリスマスという言葉が出ても良いんじゃないか、とも思うのだが。


レヴィスト
去年買った一冊の本を思い出し、家に帰って読んでみた。その本のタイトルは、『火あぶりにされたサンタクロース』という。著者はフランス人の人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースだ。

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この本の最初はある記事を引用している。内容はフランスでサンタロースが火あぶりにされた出来事についてのものだ。

この記事の冒頭部分を引用する。元は『フランス・ソワール』という夕刊紙の、1951年12月24日の記事らしい。
「サンタクロースが、昨日午後、ディジョン大聖堂の鉄格子に吊るされたあと、大聖堂前の広場において人々の見守るなか火刑に処せられた。この派手な処刑は、教区若者組に所属する多数の子供たちの面前で行われたのである。この刑の執行は、サンタクロースを教会の横領者にして異端者として〈有罪〉の判決を下した聖職者の同意のもとに決定された。サンタクロースはキリストの降誕祭を異教化し、鳩のようにおとなしそうな顔をしながら教会のなかに居すわって、ますます大きな顔をするようになったとして非難されたのである」

わざわざ子供の前で火あぶりにしたというのだからおぞましいことをするものだ。しかし重要なのはこの引用部分の最後の方、「キリストの降誕祭を異教化し」というところ。サンタクロースは日本においてはキリスト教の聖人のようなイメージがあるが、キリスト教の中においては異教化した存在、つまり教えを歪めた存在ということになる。


教父さまが言っていたようにプレゼントやツリーが主役ではないのが本来のクリスマスなのだろう。けれどサンタクロースはイエスを主役の座から引きずり下ろし、世俗的な購買活動やサービスが主役におどり出る雰囲気を助長しているとも考えられているとも考えられる。

もしかしたら、「メリークリスマス」にも同じようなことが言えるのではないか。

「メリークリスマス」は現在、少なくとも日本では単なるお祭りの日の挨拶のようなものになっている。この言葉自体にChristがあっても、発する人の心の中にはイエスはいない。あるのはプレゼントと食事やワイン、そしてツリーやイルミネーションへの賛美といったところだろうか。

「降誕祭、おめでとうございます」という形に落ち着いた現在のカトリックの事情は、複雑な思いを抱えたものなのかもしれない。


読んでいただきありがとうございました。
拙い知識に基づいて書いております。もし教会でメリークリスマスを言わない理由についてご存知の方がいらっしゃいましたら情報提供いただけると幸いです。


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