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高校2年生の時、父から渡された一冊の本のお陰で私の人生が方向づけられた

高校生の頃、地元の進学校に通っていた私だが、まさに部活漬けの毎日だった。卒業した先輩が夏休みに帰省して部活に顔を出してくれた時、楽しいキャンパスライフの話など聞いて、漠然と高校卒業したら都会の短大に行こう。短大を卒業したら、数年働いて結婚しょう。結婚で仕事は辞めないけど、子供ができたら育児に専念だ。30歳までに2人の子供ができて、子育てがひと段落したら、そうだな小学校に上がったらパートで働いて…とぼんやり(とは言え結構具体的な妄想!?)思っていた。結局子供どころか結婚せずにいますけど。(笑)

そんな高2のある日、父から”将来のことをちゃんと考えろ。手に職を持て”と一冊の本を渡された。

それはいろんな職業や資格の紹介と、どうしたらなれるのか書いてある本。写真のように鮮明にその本のページを覚えている。父はこうしろとは言わず、自分で考えて決めろとだけ言った。

同時期にテレビで家庭訪問して健康相談らしき仕事している番組を観た。自転車で地域の家を回る保健師さん。”日生のおばちゃん“(これも昭和だなぁ)的なイメージで、こんな仕事があるんだと知った。(ネット・パソコンどころかワープロもない時代)

また時を同じくして、学校で女子教育(私の高校は共学)といって、女子生徒だけ体育館に集められて、カーテンを閉められたその中で、外部講師から衝撃的な出産シーンを見せられての講話があった。リアルな出産シーンはもちろん衝撃だったのだが、私には”こんな仕事もあるんだ”と講師の職業や資格に興味を持った。

いろいろとタイムリーに重なる出来事があり、私の目指すべき職業が決まった。元々理数の方が得意だったが、それまで進路の事を真剣に考えておらず文系だった。進学希望先の受験科目を調べてみると3年生では理系にうつらねばならないことが判明した。それまで前例はなかったようだが、なんとかなった。前例がないはやらない理由にはならない。

親元離れだ学生時代のことはまた書くとして…いよいよ就職するとき、保健師の病院臨床経験の必要性も言われていたため、看護師としてまず病院勤務することにした。外科系の病棟で忙しかったし緊張の毎日でもあった。しなければならない業務に追われ、してあげたいケアも十分できず”ちょっと待ってね”を繰り返さざるを得ない毎日に、このままでいいのかともんもんとした気持ちで過ごしていた。

一方で憧れの英会話も上達ぜず、こうなったらまず海外へ行ってみたい、と看護部長へ提出するその年の目標に書いたら(30年以上前だから海外旅行もまたそう多くなかった時代)アメリカ・ホスピス視察ツアーを紹介してくれた。オススメの視察旅行のため堂々と2週間休みがとれたので、確か¥8◯万と信じられない高額ツアーだったけど参加を決意した。その時の学びと出逢いはその後もかけがえのない私の財産となった。そして、アメリカのホスピスケアはほとんど在宅ケアということを知り、緩和ケアの現場で看護師が自信と誇りを持って働いていたことに感銘を受けた。『死ぬ瞬間』の著者で『死の受容のプロセス』でも知られているキュープラ・ロス氏の手料理を食べて直接レクチャーを受けた何て信じられない思い出もある。

私は高校2年から自分が目指していた在宅ケア、患者さんやご家族とじっくり向き合える、目標としていた訪問看護へいよいよ進むことになった。アメリカ・ホスピス視察の学びから、”おうちで自分らしく過ごしたい方、それを支えて看取りたいご家族のお手伝いができたら”と、まだ介護保険が始まるずいぶん前だけど、在宅の世界に飛び込むことになった。

その後約15年病院訪問看護・ケアマネジャー・在宅医療の診療所・訪問看護ステーションなどでどっぷり在宅の魅力にはまった。私の看護職人生の大半は在宅の現場で鍛えられ育ててもらった。携帯電話のない時代、ポケットベルで24時間体制をとっていたし、今はほとんど見かけない公衆電話や患者宅で電話をお借りしてかけ直したりしてのも懐かしい。

まだ訪問看護が珍しかったので、地域や看護協会、看護学校・大学で在宅ケアの実際ということで講演や授業もさせていただいた。人前が苦手なのに、使命感を感じてやっていたので振り返ってみてもあの頃はよく頑張ったと思える20〜30代。

その後、体調不良(と言っても職業病の腰痛悪化)で臨床現場から離れて、将来を考えて相談業務にシフトすることにした。在宅の仕事は本当に予測不能なことも多く、正解もなく、悩まされることも多かったが、気づきや発見も多く充実感いっぱいの日々でだった。それからの現在の仕事、相談業務や緩和ケアに繋がった。今の仕事も難しくもあるが非常に面白く、まさにこの仕事にたどり着いた感がある。

2度のバーンアウトを経験し、海外語学留学、30歳過ぎてのバックパッカー、地方から東京でのOL経験など、生きたいよう生きてきた。もちろんこの間人並みに親の介護にも直面した。しかし、この強い資格があったから思い切った決断がいろいろとできたように思う。お陰様で今自律でき自由に生きていると感じる。

あの日、父が怖い顔して本を渡し”手に職を持て”と言ってくれたことにとても感謝している。お年頃の時期も心配して”結婚しろ”とうるさい母とは違い、その件には全く触れなかった。”自律しろ”が父からのメッセージだったと思う。天国の父にその辺のことも聞いてみたい。お陰であまり甘えることが苦手な娘に育ったんですけどね。

ということで、自分で選択してこの仕事に出会えて私は幸せだなぁとつくづく思う今日この頃。好きな仕事で自分で立っていられる。今後も好奇心旺盛に定年後も70歳までは働く満々だ。

先日全く別業界の友人に”70歳まで働くつもり”と話したら、“私は80歳まで働くつもり”とビックリな返事が帰ってきた。私の周りには素敵な刺激的友人も多い。




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