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文字盤のない時計店 〈8090字〉 ~眠気を誘う小説

 曲がりくねった路地裏の奥に、その不思議な時計店はありました。
 くすんだガラスのはまった古い木の扉をぎいっと押し開けると、チリリンとドアベルが音をたてました。店の中は薄暗く、どことなく埃っぽい匂いが漂っています。表の看板には時計店と謳ってあるものの、とても時計には見えないものばかりが大小様々店中いたるところに置いてあり、天井のランプの灯りがぼんやりとその影を浮かび上がらせていました。

「いらっしゃいまし」

 店の奥から深く落ち着いた声がしました。見ると黒いスーツにネクタイを締めた、品のよい初老の男性が静かにこちらを見つめています。

「本日はどんな時計をお探しでしょうか」
 店の主人と思しき男性の丁寧な口調に、私はいささかどぎまぎしながら答えました。
「えーと、あの、最近よく眠れなくて……ベッドに入ると何故か目が冴えてしまうんです。いろいろ調べては試してみたんですけど、どれもイマイチで……」
 彼は微かに頷きながら、私の話を黙って聞いていました。
「――そうしたら友達がここを教えてくれたんです。彼女もずっと寝つきが悪かったけど、ここの時計を買ったらよく眠れるようになったって……」

 そうなのです。実はここは『眠れる時計』を扱う店なのです。
 店の主人は手ぶりで私に座るよう促しました。私が店の隅にあるカウンターに向かって腰掛けると、彼は静かな声で語り始めました。

「時計とは本来、時を計り、時刻を知るためのものです。古来より時を知ることは、非常に重要なことでした。ですがおよそ睡眠に関しては、その常識があてはまりません。――ご経験はありませんか?眠れない夜に時刻を目にしたり時を打つ音を聞いて、却って焦ってしまうというような」
 私はどきりとしました。それこそまさに私の毎晩の悩みだったからです。
眠らなければと、悶々とするうちにうっすらと外が白みかけ、新聞配達の音や賑やかな雀の囀りが聞こえてきた時のあの絶望感。
 彼は私の思いを見透かすように、言葉を続けました。

「ですから、この店の時計はみな文字盤がありません。ここでは時刻を知ることはさほど重要ではないのです。ただ時の刻みを感じ、その流れに身を委ねればいいのです。この店の時計はそれをお手伝いするものです。ただどの時計がいいかは人それぞれですね。好みや相性は人によって違いますから」
 私はよく判らないまま、曖昧に頷きました。
 彼は後ろの棚から一つ、また一つと時計を取り出してカウンターの上に並べると、その中から大きな砂時計を手に取りました。

「これは砂時計……そう、勿論ご存知ですね。砂時計は温度や振動に強く、長い間船の航海で重要な役割を担ってきました。現代では音のない時計として、静けさを求める場所で使われることが多いようです。砂の動きを見ていると不思議と心が落ち着く、と仰る方はとても多いのですよ」
 彼はそこで言葉を切って、ことん、と砂時計を逆さにしました。途端に薄いブルーの細かい砂がさらさらと、上から下へ絶え間なく流れ落ちていきます。柔らかで規則的な砂の動きは、確かに心に静けさをもたらすように思えました。

 すると突然カシュッという音がして、私ははっと我に返りました。
「――こちらは燃焼時計。燃やすことで時を計るものです。でもここでは、炎のゆらぎや香の薫りにリラクゼーション効果を求めるものです」
 どうやらさっきの音は、大きな蝋燭にマッチで火を点けた時のもののようでした。時折ゆらめく炎の動きは、ついうっとりと見入りそうになってしまいます。

「この桝目の箱は?何だかいい匂いがするけれど」
 私は蝋燭の脇に置かれた木箱を指差しました。彼は頷くと、桝目の蓋をそっと開けました。蓋の下から現れた盤面には、微かに薫る抹香がくねくねと九十九(つづら)折れに詰め込まれていました。
「これは香盤時計です。香の燃える速さが安定していることから考えられました。奈良時代に中国から伝わったと言われています。もっとも時刻を気にしないのであれば、現代のアロマテラピーとほぼ同じですが」
 彼は香盤時計には火を点けず、静かに蓋を閉めました。

「これらの時計は、大きさによって計れる時間が違います。この店では大体30分から1時間程度の大きさのものを用意しております。ところでお客様の枕元には、こういったものを置ける場所がおありでしょうか?」
 考えてみると、幸い寝室のベッドの脇には小さなコーナーテーブルが置いてあります。私がそう言うと、彼は安心したように何度か頷きました。
「砂時計や蝋燭時計のように、目で見て安らぎを得るタイプのものは、寝た姿勢では見にくいことが難点です。でもお客様のように、ベッドのすぐ近くに置くことができれば、寝ながらでも見られますから大丈夫です。一方、香盤時計などは置き場所をさほど選びません。同じ部屋に置ければ充分です」

 そして彼は後ろの棚から、もう一つ時計を取り出しました。やはり木製の箱で、表面に繊細な葡萄のレリーフが施された素敵な時計でした。
「音を利用した時計も同じことが言えますね。こちらはビー玉時計。箱の中を大小二つのビー玉がそれぞれ動き続けるカラクリです」
 彼はカウンターの引き出しから、大きさの違う二つのビー玉を取り出すと、箱の隅にある大小二つの穴に入れました。
 しばらくすると箱の中でコン、とビー玉の落ちる音がしました。そしてその少し後にまたコトン、と音が響きました。恐らく最初の音が小さなビー玉、後の音が大きなビー玉の音なのでしょう。
 コン…コトン…コン…コトン…
 規則正しく繰り返される二つの音に耳を澄ませていると、なるほど眠気を呼ぶような気がします。
 やがて彼はそっと箱の蓋を開けると、二個のビー玉を取り出しました。でも何だか、まだ耳の奥に音が響いているような感じが残っていました。

「いかがでしょう。どれかお気に召したものはありましたでしょうか」
 私は、はたと考え込みました。
 見せてもらった時計はどれもみんな美しく、不思議な雰囲気を醸し出していました。でもまさか片っ端から買う訳にもいきません。そんな私の迷いを読んだかのように、彼は言葉を続けました。

「最初に申し上げましたようにこれらの時計選びには、やはり相性というものがございます。店の中で試すのと実際に寝室で使ってみるのとでは、また感触も違います。ですから当店では『お試し時計』をお勧めしております」
「『お試し時計』?」
「はい、そうです。せっかく買ってはみたものの、全く効果がないのでは意味がありません。そこでまず気になるものをいくつか借りて頂き、一週間ほどお試し頂きます。お気に召したものがあれば、再度ご来店頂いた時に、改めてお買い求め頂くという仕組みです。勿論好みに合うものがなければ全部お返し頂いて構いませんし、また別の時計をお試し頂くのも自由です。有料のサービスではありますが、時計をお返し頂いた時に料金の半分は返金致します。もしお買い求め頂いた場合は、全額お返しさせて頂きます」

 私は考え込みました。確かにそれは魅力的な方法です。仮に効果がなくても借りた料金の半額は返ってくるし、運よく合うものが見つかれば、その時計の購入代金のみでよいということですから。ただ問題はその料金がいくらかということです。私が恐る恐る尋ねると、彼は二割です、と事もなげに答えました。
「お借りになる時計の総額の、二割にあたる金額を『お試し料』として頂きます。そのつど料金はかかりますが、時計をお返し頂くごとに半額をお戻ししますし、お買い求め頂けた場合は、かかった『お試し料』の全額を返金致します」

 私は決心しました。どうせ今のままでは眠れないことに変わりはないのです。それならば多少なりとも眠れる可能性に賭けるのも悪くないでしょう。
 財布の中身と相談しつつ、私は砂時計とビー玉時計を借りることにしました。蝋燭や香盤時計も気にはなったのですが、何となく火を使うのが怖い気もしたのです。私は二つの時計の代金の二割を『お試し料』として支払いました。まあまあ豪華なランチを奮発したぐらいの値段にはなりましたが、これで眠れるのなら安いものです。私は二つの時計を箱に入れてもらい、はやる気持ちで家に帰りました。

 その一週間後、私は再び店を訪れました。
 店の主人はちゃんと私の顔を覚えてくれていたようでした。でも彼は私の顔を見るなり、残念そうな表情を浮かべました。
「……あまりお気に召さなかったでしょうか?」
 私は苦笑しました。どうやら私の顔には『眠れなかった』という文字が書いてあるようです。

「砂時計はとても綺麗だったけど、暗い中では少し見にくくて。ビー玉時計は最初はうとうとできるんですけど、逆に途中で音に反応して起きてしまうんです」
 私がそう言うと、彼はなるほどと頷きました。
「ビー玉時計はとても人気があるのですが、途中で止めることができないので、たまに音が気になってしまう方もいらっしゃいますね」
 私はそれを聞いて内心ほっとしました。自分が神経質すぎるのかと心配だったからです。

「あの、他にはどんな時計がありますか?」
 彼はしばらく考え込んでいましたが、やがて脇の棚から金属でできた小さな半球状の時計を持ってきました。そしてゆっくり店の真ん中まで歩いていくと、天井から下がっていたランプの灯りを消してしまいました。
突然周りが真っ暗になって驚いた私は声を上げ、そして次の瞬間、息を呑みました。暗闇の中にくっきりと丸い光が浮かび上がったからです。

「これは……月?」
 すると離れたところから彼の声が聞こえてきました。
「これは天体時計です。このまましばらく見ていると、月が少しずつ移動していくのが判るでしょう。ちょうど月が夜空を動いていくように」
 暗闇にぽっかりと浮かんだ満月は、じっと見ていると確かにほんの僅かずつ、動いているようでした。
「この時計は1サイクル45分間となっています。満月以外にも上弦・下弦の月や三日月、それに北半球・南半球の星空などが選べます」

 そして不意に店の中が明るくなり、私は眩しさに目をぱちぱちさせました。彼は店の真ん中から戻ってくると、天文時計のスイッチを切りました。
 私は急いで鞄から財布を取り出しました。
「借りていかれますか?」
 私が頷くと、彼は約束通り前回の『お試し料』の半額を差し引いて、天文時計の『お試し料』の額を教えてくれました。この前の金額とほとんど変わらなかったので、私はほっとして料金を支払い、店を後にしました。

 一週間後、店を訪れた私の顔を見ると、店の主人はまたもや残念そうな顔をしました。
「……あれも駄目でしたでしょうか?」
 私は黙って頷きました。
「差し支えなければ、理由をお聞かせ願えませんか?」
彼はじっと私の目を覗き込みながら尋ねました。
「確かに幻想的で素敵でした。でもだんだん変なことを考え出しちゃうんです」
「変なこと?」
 彼は怪訝そうに聞き返しました。少し気恥ずかしくはありましたが、私は正直に話しました。

「横になって真っ暗な中でぼんやり光る月を眺めていると、まるで自分が宇宙に浮いているような気になるんです。そうするといろんなことが頭に浮かんできて」
「例えばどういったことが?」
「――自分はいったい何者で、どこから来てどこに行くんだろう、とか」
 私は笑われるのを覚悟で口にしたのですが、彼は笑わず黙って目を閉じました。また何かを考え込んでいるようでした。
「少々お待ち頂けますか?」
 そう言うと、彼はポケットから小さな鍵を取り出しました。そして店の奥にあった鍵付きのショーケースの中から小さな籠のようなものを取り出すと、再びカウンターに戻ってきました。

「ではこちらの時計ではいかがでしょうか」
 彼は持っていた籠を、そっとカウンターの上に置きました。
 籠の中を覗いた私はびっくりしました。
 何と一匹の小さな仔猫が眠っているではありませんか。
「猫?何で猫が関係あるんですか?」
 思わずそう尋ねると、彼は静かな声で答えました。
「そう仰るのも無理はありません。ですがこれもれっきとした時計なのです。本物の猫ではありません」
 私は更に驚きました。本物の猫じゃない?とてもそうは見えません。艶やかなグレーの毛並みのくるりと丸まった背中が、気持ちよさそうな寝息をたてて動いています。私は手を伸ばして、指先でそっと仔猫を触ってみました。温かく柔らかい触感は、まさしく生き物の証でした。

 ところが彼はその仔猫を抱き上げると、ひょいとそのお腹を私の方に向けました。仔猫の白いお腹に、電源スイッチと小さなダイヤルがついているのを見て、私はあんぐりと口を開けました。
「驚かれるのは当然です。ちょっと触ったぐらいでは本物と間違えるぐらいの、非常に精巧な作りですから」
 彼は仔猫を、いえ時計を籠に戻しました。
「この仔猫時計は、まだどなたにもお出ししたことはございません。他の時計で満足なさる方がほとんどだからです。実際、先回の天文時計は非常に人気が高く、これまでもう相当の数をお出ししましたが、合わないと仰る方はお客様を含めて三名しかいらっしゃいませんでした」
 私は愕然としました。ずいぶんな確率の組に入ってしまったものです。

「一度こちらをお試し頂けませんでしょうか。初めてお出ししますから『お試し料』は無料で結構です」
 そう言うと彼は小さな籠ごと、時計を私の前に置きました。
「この時計はどうやって使うんですか?」
 私が尋ねると、驚いたことに彼は首を横に振りました。
「何もしなくて結構です。ただいつもお客様と一緒のお部屋に置いて下さい。確かベッドの脇にコーナーテーブルをお持ちでしたね?お休みの時はそこに置いて頂ければ結構です。勿論エサやトイレの世話も必要ありません」
 何だか狐につままれたような気がします。でも無料ならまあいいかと、いささか浅ましい気持ちも働いて、私は籠の入った袋を手にして店を出ました。帰る道すがら時折中を覗き込んでみましたが、仔猫時計はおとなしく眠っていました。

 家に帰って部屋の暖房をつけ、着替えをすませた私は、袋の中から籠を取り出しました。やはり仔猫時計はすやすやと眠ったままでした。一体これのどこが時計なのか、見当もつきません。私は諦めて籠を台所のテーブルの上に置きました。
 まだ眠るには早すぎる時刻だったので、私は食事をしたり本を読んだりと、とりとめのない時間を過ごしていました。

 やがて夜も更けた頃、私は店の主人に言われたとおり、仔猫時計を籠ごと寝室に運んでコーナーテーブルの上に置きました。それでも時計は静かなままでした。まさか今更店の主人が私を騙したとも思えません。私は訳も判らないまま、仕方なくベッドに入りました。
 暗闇の中でぼんやり天井を眺めていると、小さな小さな音が聞こえました。

 みい……みい……

 私は顔をテーブルに向けました。確かに音はそこから聞こえてきます。私は身を起こして籠の中を覗き込みました。
 仔猫時計は目を覚ましていました。まるで本物の仔猫さながらのつぶらな瞳でこちらを見上げ、みいみいと声を震わせて鳴いています。私はこれが時計であることも忘れ、思わずそっと背中を撫でました。しばらくそうしていると、仔猫時計はうとうとし始め、そのうち元のようにすうすうと寝息を立て始めました。

 私はやれやれとため息をつくと、もう一度ベッドにもぐり込みました。
ところがしばらくすると、またもやみいみいと鳴き始めるではありませんか。これでは眠るどころではありません。何度撫でておとなしくさせても、少し時間が経つと仔猫時計は目を覚まして鳴き出すのです。私は予め教えてくれなかった店の主人を恨めしく思いました。

みい……みいみい……

 私は布団をはねのけて起き上がりました。そして籠の中から仔猫時計を取り出すと、自分の枕の上にそっと置きました。そして自分も横になって布団を被りました。
 ちょうど私の目の前で、仔猫時計はしばらくみいみいと鳴いていましたが、次第にその声は途切れがちになり、やがてことりと眠りにおちたようでした。そのままじっと様子を見ていましたが、どうやら今度は目を覚ます気配はありません。私はほっと安堵のため息をつくと、仔猫時計がはみ出さないように布団を引っ張り上げ、自分も目を閉じました。

 ぷに……ぷにぷに……

 頬にあたる不思議な感触に、私ははっと目を覚ましました。
 いつの間にか朝が来ていました。窓から差し込む明るい日差しの中、仔猫時計がその小さな前脚で、私の顔を優しく引っかいていました。
 どうやら仔猫時計を自分の寝床で寝かしつけたあと、そのまま自分も寝入ってしまったようでした。あれだけぐずっていた仔猫が、ようやく眠ってくれたことに安心したからかもしれません。
 私は仔猫の愛らしい仕草にふっと微笑み、何度か撫でてみました。すると仔猫時計は引っかくのを止めて、また元のように丸まってすうすうと眠り始めました。私は時計を籠の中に戻すと、大きく伸びをして起き上がりました。

「――今度はお休みになれたようですね」

 一週間後、私は仔猫時計の入った籠を抱えて、また店に行きました。店の主人は私の話を聞く前から、すべて判っていたようでした。私は頷いて籠をカウンターの上に置きました。

「時計というより、何だか本物の仔猫を飼ってるみたいでした。ずっと眠ってたはずなのに、こっちが寝る時になったら鳴き出して、撫でると静かになるけどまたすぐに起きちゃうなんて。あんまり鳴くのを繰り返すから、仕方なく私のベッドで寝かせたらようやく眠ってくれたけど」
「そしてお客様もいつの間にか眠ってしまわれた」
 私は口を噤みました。なぜ彼はそれを知っているのでしょうか。

 「……不躾な質問で大変失礼ですが、お客様は常日頃、自分の失敗や至らない点について、お悩みになることが多いのではないでしょうか?それも相当深いレベルで」
 私はぎくりとしました。
 彼は私の表情を見て、それが事実であることを理解したようでした。
「真面目で勤勉な方によくみられることです。つまり自分自身と向き合い過ぎてしまうのですね。自らを省みるのは大切なことですが、行き過ぎれば時に自家中毒を起こしてしまいます。前回お話を伺った時に、失礼ながらそういう印象を受けました」
 確かに彼の言うとおりかもしれません。日々の悩みや眠れないことの焦りから、どうやら私は心の中から余裕というものを失ってしまっていたのでしょう。

「そういう時は、自分以外のものに興味を移し、自分自身の中を喜びで満たすことが必要なのです。例えば誰かを助けたり労わることによって得られる感情、そう充足感と言えばいいでしょうか。ですからこの時計をお試し頂きたかったのです」
 そう言うと彼はちらりと籠の中の仔猫時計に目をやりました。

「さて、いかがなさいますか?」

 私はゆっくり首を横に振りました。そしてもう一度だけ仔猫時計をそっと撫でました。
「――今日は花を買って帰るつもりです。寝室に飾ろうと思って」
 私が笑ってそう言うと、彼もにこりと微笑んで何度も頷きました。彼が笑ったのを見るのは初めてでした。そして彼は胸のポケットから何かを取り出すと、私に差し出しました。

「仔猫時計を初めて試して頂いたお礼にこちらを差し上げます。どうぞお守りがわりに、お花の近くにでも置いて下さい」
 それは小指ぐらいのサイズの小さな砂時計でした。指先で挟んで逆さにすると、月のような色合いの細かい砂が、ランプの灯りに煌めきながらさらさらと落ちていきます。

「ありがとう。大事にします」
 私は砂時計をそっと鞄にしまうと、重い木の扉を引き開けて外に出ました。空を見上げると上り始めた三日月が、うっすらと光を残した夜空から優しく微笑みかけています。
 ――さあ、どんな花を買おうかな。
 夕闇の漂う裏路地のどこかで、みい、と鳴く仔猫の声が聴こえた気がしました。

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