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牙はなくとも 〈12518字〉~某児童文学賞応募作品

「ごめーん、ちょっとまわり見張っててくれる?もうめっちゃノド渇いちゃってさぁ」

突然足元から上ってきたカン高い声に驚いたキリンは、慌てて長い首を下に向けた。
キリンの足の半分の高さにも及ばない小さなインパラが、返事も待たずにさっさとキリンを追い越して目の前の川に向かっていく。キリンは仕方なく足を止めた。次から次へと続く彼女の仲間たちを踏んでしまいそうだったからだ。インパラの群れはそれぞれ川にたどり着いたものから、我先に水を飲み始めた。

じりじりと照りつける太陽の光は、草原を容赦なく灼熱の大地に変えていく。そんな中で美味そうに水を飲むインパラたちを見下ろしつつ、またかとキリンはため息をついた。

弱肉強食が絶対の掟であるサバンナでは、危険を嗅ぎとる能力の高さが生死を分けると言っていい。ことにインパラのような小型で弱い動物たちにとって、いざという時には一瞬でも早く逃げ出すことが何より重要だ。敵に風下から近寄られたら、彼らの鋭い嗅覚も役には立たない。
その点背が高くて遠くまで見渡せるキリンの傍にいれば、仮に肉食動物が近寄ってきてもいち早く気がついて逃げ出せる。だからキリンが水場にいると、彼らも安心して水が飲めるのだ。今日もたくさんの動物たちが、キリンの見張りをあてにして水場に集まってきていた。

「やあ、今日も暑いね。おや、君は飲まないのかい?」
後から来たシマウマが、悠々とキリンの横を通りながら気軽に声をかける。キリンだって飲みたいのはやまやまだった。
特にここ最近の異常な暑さは、サバンナに生きる動物たちにとっても死活問題だ。他の動物たちが美味そうに水を飲んでいるのを、ただ眺めているしかないキリンとてその例外ではない。とうとうあまりの喉の渇きに耐えかねて、少しでも水を飲もうと頭を下げ始めた時、横から野太い声が飛んできた。

「おい、見張り役が下向いてどうすんだよ」

キリンは下げかけた頭を慌てて止めた。
見るとどっしりした体の水牛たちが、黒光りする太い角をこちらに向けるようにして、ぎろりとキリンを睨んでいた。
「おまえにサボられたんじゃ、こっちはおちおち水も飲めやしねえよ。ちゃんと見張ってろや」
水牛たちの迫力に気おされたキリンはおずおずと川から後ずさり、仕方なく首を伸ばして遠くを見渡した。たまらなく水が飲みたかった。

「ひゃー、生き返ったぁ!やっぱキリっちがいると安心だよねー」
たらふく水を飲んでご機嫌のインパラがぷるぷると身体を震わせる。
「なあ、満足したら今度はちょっとそっちが見ててくれないか?僕も水を飲みたいからさ」
遠慮がちにキリンがそう言うと、インパラの群れは途端にざわめき始めた。

「えー、何で?アタシたちが見てたってしょうがないじゃん」
「アタシたち、背低いしー」
「仲間に頼みなよ。キリンはキリン同士ってさ。アタシたちじゃ頼りにならないし、何かマチガイでもあったら困るでしょ?」
インパラたちは口々にまくしたてるとキリンが言い返す隙も与えず、安全な茂みに向かってさっさと跳ねていった。

――いつもこうだ。キリンはまたもため息をついた。
自分たちの得になることはとことん追及するが、それさえ満たされれば相手の気持ちなどおかまいなしだ。だが口だけは達者なので、押しの弱いキリンはいつも貧乏くじを引くはめになるのだった。
気がつくと、水場にはもうほとんど誰も残っていなかった。みんな飲むだけ飲んで喉を潤すと、後には構わず自分のすみかへ戻っていった。

「まったく勝手なものだな。でもあいつらを敵に回すと、また別の意味でおっかない。まあうまく付き合ってくしかないさ。大変だな、君も。どうだい、僕でよかったら見ててあげるよ。これだけ暑いんだ、君だって水を飲みたいだろう?」

どことなく勿体ぶった声に下を向くと、さっきキリンに声をかけたシマウマがすぐ横に立っていた。こちらもたっぷりと水を飲んだ上に水浴びまでしたらしく、毛並みについた水玉がきらきらと光って、さも涼しげだった。
限界近くまで喉が渇いていたにもかかわらず、キリンは一瞬躊躇ためらった。

確かに自己中心的なインパラたちも苦手だが、実はこのシマウマも、キリンにとってはあまり積極的に付き合いたい相手ではなかった。
一見当たりはいいが、キリンと違って要領がよく抜け目がない。勝手なことを言うインパラたちを咎めるでもなく、涼しい顔で自分も悠々と水を飲む。かと思えば扱いの面倒な彼女たちがいなくなるやいなや、したり顔で判ったようなことを言う。しかもどことなく恩着せがましい物言いが、おっとりしたキリンにとっては不安を掻き立てられるのだった。
しかしこれほど喉が渇いていては、そんな贅沢は言っていられない。

「すみません、じゃあお願いします」
そうキリンが頼んだ時には、すでにシマウマはぱしゃぱしゃと音を立てて対岸に渡っていた。そしてキリンから少し離れた場所に立ち止まると、頭をきっと上げて注意深くあたりを見回し始める。その姿はさっきまでの少々勿体ぶった態度とは打って変わって、真剣で緊張感にあふれていた。

キリンはほっと一息つくと、その長い首をそろそろと川に近づけて、鼻先を水面に突っ込んだ。じりじりと焼けつくような太陽の下、じっと我慢して渇ききった喉に、新鮮で冷たい水が流れ込む。まさに生き返る心地だった。

ひとしきり夢中になって水を飲み、ようやく落ち着いたキリンは、やれやれと水面から顔を上げた。ふうっと大きく息をついたあと、見張りをしてくれたシマウマに礼を言おうと口を開きかけたその時、キリンは思わぬものを目にしてその場に凍りついた。

川を挟んで目の前にいたはずのシマウマの姿は忽然と消えていた。
そのかわりに一頭の雌ライオンが、自分のすぐ隣でさも美味そうにぴちゃぴちゃと水を舐めているではないか。

――逃げなきゃ。

そう思ったが、どういうわけか体が動かない。まるで体中が麻痺したように、キリンは頭を上げかけた姿勢で固まっていた。
しかし雌ライオンは、まるでキリンの存在に気づいていないかのようにゆったりと水を飲み、やがて満足したようにぐうっと喉を鳴らした。そしてようやくキリンの方を見るとにやりと笑った。鋭い牙と大きな歯、そして真っ赤な舌がむき出しになったその顔からは不思議と攻撃の気配は感じられなかった。小柄だが引きしまった体つきの雌ライオンで、どういうわけか尻尾の先がちょこんと折れ曲がっていた。

「まあそんなに怯えなさんな。あんたのことは獲って食やしないよ」
そう言うと雌ライオンは、ぼわあっと大きなあくびをした。
「……失礼。まあ正直あんたや象みたいな大物に手を出すと、こっちも無傷じゃいられないんでね。あたしとしてもあんまり危ない橋は渡りたくない」
「お腹、空いてないんですか?」
言ってからキリンはしまった、と思った。
しかし雌ライオンはぷっと吹き出しただけだった。

「そんなワケないでしょうが。それどころか、ここんとこまともな獲物にありついてないんだ。おかげであたしも群れのみんなもお腹を空かせてる。自分のメシも都合できないぐうたらな旦那はいるわ、生まれたばかりのチビたちはいるわで、まあ困ったものさ」
「ライオンさんも大変なんですね……」
慎重に言葉を選びつつキリンがぼそぼそと呟くと、雌ライオンは大きな口をくわっと開いて笑い出した。

「おっかしな子だね。天敵に同情してどうするんだい。そんなんだからあのお調子モンのインパラたちにナメられるんだよ。”キリっち”だとさ。はは、笑っちゃうね……それはそうと、あのシマウマの奴。あいつはちょいといただけないねえ」
そう言うと雌ライオンは顔をしかめた。
「え?どういう意味ですか?――そう言えば、彼はどうしたんだろう。僕が水を飲む間は彼が見張っててくれたはずなんだけど……ま、まさかあなたが……」
言いかけて、キリンは慌てて口をつぐんだ。
雌ライオンは鋭い目つきでキリンを睨むと、かっと地面に唾を吐いた。

「ふん、確かに狙ってたさ。だけどあいつは早々にあたしに気づいて、一目散に逃げてった。あんたを残してね。あんたは夢中で水を飲んでたから、あいつが気配を立てずに離れていくのに気づかなかったってわけさ」
キリンは混乱した。ライオンが近づいてきたことに気づいていた?じゃあ何で彼は教えてくれなかったんだ?そのための見張りじゃなかったのか?

「まったくお人好しだね。尻の軽いインパラたちにはナメられるわ、親切ヅラしたシマウマにはあっさり裏切られるわ」
「裏切りって……そんなことないですよ!ちゃんと見ててやるって言ってくれたんです。きっとあなたの姿を見つけて、怖さのあまり咄嗟に……」

雌ライオンは、ふふんと小馬鹿にしたような笑いをもらした。
「へえ、そうかい。じゃあなぜ危ないと、あんたに知らせない?そういう約束だったはずじゃないか。大体、もしも奴が慌てて逃げたんなら、いくら鈍いあんたでも気がつくはずだろう?」
確かにそのとおりだった。雌ライオンは容赦なく続けた。

「あたしの姿に気づいた時、あいつはわざとそうっとその場を離れてから逃げ出した。なぜって?もちろん、あんたに気づかれないためさ。同時に逃げたら、図体のでかいあんたより自分の方が狙われると思ったんだろうよ。実際そのとおりだしね。だからあんたを売って、自分の身を守ったのさ」

ぴしりと指摘されて、キリンはがっくりと首を垂れた。もちろん誰だって命は惜しい。でもまさかこんな真似をするなんて……。
打ちひしがれるキリンにかまわず、雌ライオンはまたもや大あくびをすると、ぐうっと前脚を伸ばした。それからぷるぷるっと軽く体を震わせる。
「まあ正直、大して驚かないけどね。悪いけどあんたたちの会話を全部聞いてたよ。こっちは風下だったから、みんな丸聞こえさ。あんまり気がいいのも考えもんだね、まったくのところ」

――そのとおりかもしれない。
キリンはふとそう思った。
考えてみると、いつだってそうだった。自分たちばかり好きなだけ水を飲んで、キリンだって喉が渇いていることなど、これっぽっちも考えてくれない。仲間のキリンたちでさえ、おっとりしていて要領の悪い自分を馬鹿にして、毎日彼らだけで連れ立っては美味しい葉っぱのあるところへ出かけてしまう。自分はその葉っぱの在処ありかすら教えてもらえず、いつもいつも置いてきぼり……。

「まあまあ、そんなに落ち込みなさんな。実はね、そんなあんたを見込んで、ちょいと頼みがあるんだよ」
キリンは意味がわからず、ぼんやりと雌ライオンを見返した。百獣の王たるライオンが、キリンにいったい何の頼みがあるというのだろう?

「いやね、さっきも言ったとおり、最近どうも狩りが上手くいかない。だから仲間も飢えてる。特にチビどもがね。わかるだろ?」
そう言って雌ライオンはふうっとため息をついた。

「そこでだ。明日の夕方、あんたがみんなのために見張りをする時にあたしたちが近づくのを見逃してくれないか……おおっと待った」
雌ライオンは片方の前脚をひょいとあげて、言い返そうとするキリンを押しとどめた。
「あんたの言いたいことはわかってるよ。みんなを裏切れないって言うんだろ?あたりまえさ。だからね」
雌ライオンは言葉を切ってずいっとキリンに近づくと、まるで内緒話をするかのように声をひそめた。

「あたしたちはあいつだけを狙う。例のあんたを見捨てたあのシマウマさ。さっきも言ったとおり、あんたはでかくてリスクがありすぎる。インパラは弱っちいが、小さくて一頭や二頭じゃ群れみんなの腹は膨らまない。それに比べるとシマウマは一頭倒せば、まあ何とかなるからね。コスパがいい」

予想もしなかった内容に仰天したキリンは、恐怖も忘れて叫んだ。
「そんな馬鹿なこと……!彼を見殺しにしろって言うんですか!?」
すかさず雌ライオンが切り返す。

「わかってないね。あいつが先にあんたを見殺しにしたんじゃないか。しかもただ見殺しにしただけじゃない。あんたを守る約束をしてたにもかかわらず、それを裏切って見捨てたんだ。そのぶんタチが悪い。ここはサバンナだ。きれいごとだけじゃやってけない。だが友との約束を裏切るのはクズのやることだ。そう思わないかい?」

いつのまにか雌ライオンは燃えるような眼でキリンを見据えていた。
すさまじい迫力とともに、まるで自分の心の奥を見透かされたような言葉を突きつけられて、キリンは何も言い返せず黙り込んだ。
すると雌ライオンは一転して諭すような口調で言った。

「何も難しく考えることはない。あいつはそうされて当然のことをあんたにしたんだ。ほら、因果応報というやつさ。そのかわりあたしも約束しよう。あんたはもちろん、あいつ以外の奴らには手を出さない。仲間にもよく言っておく。信じとくれ、あんたの悪いようにはしない」

雌ライオンはそれだけ言うとゆっくりと体の向きを変え、先の折れた尻尾をぴしりと一度だけ振って、呆然としているキリンを残したまま藪の中に消えていった。

雌ライオンと別れたあと、キリンは混乱した頭を抱えて覚束ない足取りで自分のすみかへ戻ってきた。そこでは仲間のキリンたちが何頭もかたまって話をしながら、一日の終わりのひとときを楽しそうに過ごしていた。自分が夕暮れの中とぼとぼと帰ってきたことに、誰ひとり気がつく様子もない。
キリンはいつものように仲間から離れたところにある一本の木に体をもたせかけ、ぐったりと目を閉じた。
しかし何度考えても自分がどうすればいいのか、まったく答えは浮かんでこなかった。

確かに雌ライオンの言うとおり、あのシマウマは自分を裏切ったかもしれない。でもだからと言って、彼がライオンに襲われるのを黙って見ているなんて、とても自分にはできない。一体どうすれば……。
キリンは思い切って仲間に相談しようかと考えた。このまま一人で悩んでいても、自分だけの力ではとても解決できそうになかった。

キリンはもたれていた木から身を離し、半ば縋るような気持ちで仲間の方に近寄っていった。しかし彼が近づいてくるのを察した他のキリンたちは、ちらりとこちらを見やるとぴたりと会話をやめた。そして互いに顔を見合わせるとにやにや笑いを浮かべ、申し合わせたようにばらばらと散っていった。そのうちの何頭かは、彼とすれ違う時に明らかに小馬鹿にしたような笑い声をもらした。
キリンは、絶望するような気持ちで仲間に近づく足を止めた。

どうしてなんだ!僕が何をしたっていうんだ……!

いつの間にか空に昇った月が、誰もいなくなった草むらにぽつんと立ち尽くすキリンをしんと照らしていた。


ほとんど眠れないまま朝を迎えたキリンは、憂鬱な気分のままぼんやりと草原を歩いていた。豊かに茂る好物の葉っぱを見かけても、食欲の欠片すら湧いてこない。

――このまま行かなければいい。
キリンは何度もそう考えた。だがあの雌ライオンの群れが川辺に現れた時に自分が約束を破ったと判ったら、ライオンたちはきっと誰彼構わず襲うだろう。だめだ、それはできない。

一人思い悩んでいるうちに、早くも日が傾いてきた。
狩りの時間が始まる。
キリンは重い足取りでのろのろといつもの水場に向かいつつ、心の中であのシマウマが来ていないことを祈った。彼さえいなければ、少なくとも誰も襲われずにすむ……。

水場には今日もたくさんの動物たちがいた。キリンの姿を認めると、口々に声をかけて寄こす。いつもなら親しく挨拶を交わすのだが、今のキリンにとっては、ただ気が重くなるだけだった。

「やあ、今日は遅かったね。具合でも悪いのかと心配したよ。さ、ここを空けてあげるからたっぷり飲むといい」
急に脇から声がして、キリンはびくりと足を止めた。

――彼がそこにいた。
何食わぬ顔でキリンに場所を明け渡し、ゆっくりと向こう側に渡っていく。川向かいの少し離れたところには仲間のシマウマたちがいたが、彼は群れに混じらずに一頭だけ離れて立ち、油断のない眼でまわりを見渡し始めた。まさに昨日と同じように。
キリンは水を飲むことも忘れ、信じられない思いで呆然と水辺に立ち尽くした。

つい昨日、自分を裏切って逃げたことなど、まるでなかったことのように平然と水を飲み、さも親切そうな素振りで場所を譲る。そのくせ昨日のことを責められないよう、さりげなくキリンから距離を置く。
その彼の行動すべてが、雌ライオンの言葉が正しかったことを証明していた。

――あんたを売って、自分の身を守ったのさ。

キリンの頭の中にはっきりと雌ライオンの声がこだました。
本当は心のどこかで信じていた。
いや信じたかった。
せめて一言『悪かった』とだけでも言ってくれたなら――!
心の奥に渦巻いていた思いが一気にあふれ出し、キリンはもう何も考えられなくなっていた。喉の渇きも忘れ、ただ目を閉じてがっくりとうなだれた。

その瞬間、一陣の風が水場の空気を切り裂いた。夕暮れ時の草原に漂うもったりとした気怠さが一瞬にして弾け飛ぶ。
我に返ったキリンの目に入ったのは、まわりの動物たちがクモの子を散らすが如く一斉に逃げ出す姿だった。

「何してるのキリっち!」
「逃げて!!」
「早く!!!」

あちこちで上がる悲鳴と巻き起こる土煙の中で、キリンの目の前を横切って跳ぶインパラのカン高い声が鋭く響く。
その声をかき消すように、キリンのすぐ脇を数頭の雌ライオンが対岸に向けて怒涛のごとく駆け抜けていった。ライオンたちが跳ね上げる水しぶきが、容赦なくキリンの足を濡らす。

速い……!

キリンは慌てて首を伸ばし、ライオンたちの疾走する姿を必死に目で追った。その先には、ひた走る彼の姿があった。
固まって一斉に逃げる仲間のシマウマの群れに追いつこうと、彼は全速力で飛ぶように駆けていた。だが追手はぐいぐいとその差を縮めていく。先頭を走るライオンが、今まさに彼に飛びかかろうと強く地面を蹴った。

――だめだ、やられる……!

キリンがそう思った瞬間、間一髪で彼は逃げる仲間たちの群れに追いついた。ひしめき合って逃げるシマウマたちの僅かな隙間に我が身を押し込み、一瞬で群れの奥深くに紛れ込んでしまう。
その途端、追い狙うライオンたちの脚がにわかに躊躇うのが見てとれた。
いつもと違って、手の届く獲物を何でも狙えばいいわけではない。
『標的にするのは彼だけだ』というキリンとの約束が、後を追うライオンたちの脚を縛ったのだ。その一瞬の迷いが明暗を分けた。

やがて一頭、二頭とライオンたちが脚を止める。シマウマの群れは一頭も倒されることなく、大地を揺るがすような凄まじい地響きを立てて草原の彼方に消えていった。
キリンはただ呆然として、シマウマたちが去ったあとのもうもうたる土煙を見つめていた。時間にしたらほんの数秒の出来事だっただろうが、キリンには長い長い時間が流れたように思えた。

やがて狩りに敗れた雌ライオンたちが川岸に引き上げてきた。あるものはうなだれ、あるものは恨めしげにキリンを見上げながら、重い足取りで脇を通り過ぎていく。そんなライオンたちを何とも言えない気持ちで見送っていると、最後に尻尾の先の折れた見覚えのある姿が近づいてきた。

「やれやれ、仕損じたね。つくづく悪運の強い奴だよ」
「――約束を守ってくれたんですね。他のシマウマなら届いたのに……」

雌ライオンは大きなため息をつきながら天を仰いだ。
「まったくだ。約束なんか無視しちまえば久々のごちそうにありつけたのにね。あんたの気の良さを笑えないよ、正直な話。あーあ、後から仲間に散々責められるね。バカな約束してってさ」
恨めしそうな言葉とは裏腹に、雌ライオンの口調はさばさばとしていて、そこまで悔しそうでもなかった。

敵であるライオンでさえ、自分との約束を守ってくれた。
それなのに彼は……!
キリンはとうとう自分を抑え切れなくなった。

「あなたの言うとおりでした。彼は昨日のことを謝るどころか、僕を裏切ったことを何とも思ってなかった。さっきだって仲間を盾にすることで、自分の身を守ろうとした。自分さえ助かれば何だっていいんです。他の誰がどうなろうと彼の知ったことじゃない。あんな奴を仲間だと思ってたなんて……もう誰も信用なんてできない……!」

雌ライオンは何も言わなかった。ただ黙ってキリンを見上げていた。
キリンはなおも言いつのった。
「彼だけじゃない、他のみんなだってそうなんです。いつも厄介なことは全部僕に押しつけて、自分たちは好き勝手に振る舞ってる。僕はみんなのために暑い時も我慢して見張ってるのに、感謝の言葉ひとつかけてもらったことがない。みんな面倒なことは僕がやってあたりまえだと思ってるんですよ。誰のおかげで安全に水が飲めると思ってるのか……!」

虚しさとやり切れなさのあまり、キリンは胸に溜まっていた言葉をすべてぶちまけるように吐き出し続けた。
しかし雌ライオンはじっとキリンの言葉に耳を傾けているだけで、やはり何も言わなかった。自分の訴えに何の反応も示さない雌ライオンに痺れを切らしたキリンが更に言葉を重ねようとした時、ようやく雌ライオンが口を開いた。

「とことん馬鹿だね、あんたは」
きつい言葉とは反対に、その口調はどこまでも静かだった。

「確かにあのシマウマはいけ好かない奴さ。でもそういう奴も、この広い世の中にはいるんだよ。ただそれだけのことだ。そんな奴に振り回されてヤケを起こしたって、いいことなんか何にもない。見えるものも見えなくなって、結局自分が損するだけさ。あんたには聞こえなかったかい?誰もが自分の身を守るために必死だった時に、あんたに逃げろと叫んだ奴らの声が」
「え……?」
きょとんとしたキリンの顔を見て、雌ライオンは微かに笑った。

「お調子モンのインパラたちにしちゃ、なかなかやるじゃないか。こっちの鼻先を横切ってあんたの方に向かってくもんだから、もう少しで跳ね飛ばすところだったよ。もちろんいつもならガブリとやっちまうんだが、あいにく今日はそういうわけにもいかない。癪と言えば癪だが、何にせよ見上げたもんだね。あたしもちょいとあいつらを見直したよ。まあご馳走を見直したってしょうがないんだけどさ」

思いもよらないライオンの言葉にキリンは声を失い、思わずインパラたちが去っていった方角を見やった。当然のごとくその先には小さな影ひとつ見当たらなかった。

僕を助けようとしてくれた……?
あんな小さな体で……。

「わかったかい?つまりはそういうことさ。自分がやってあげてることばかりに気を取られて、誰かからやってもらったことには気づきもしない。あんたも、もうちっと勉強するんだね」
そう言うと雌ライオンは、例の折れ曲がった尻尾でぴしゃりとキリンの前脚を叩いた。
キリンはしばらくの間ぼんやりと視線を遠くに泳がせていたが、やがてゆっくりと向き直り、雌ライオンをじっと見つめた。
ライオンを正面から見たのは初めてだった。

「……すみません、ライオンさん。僕はもう明日からあなたとの約束を守れません。あなたたちが近づいてきたら、みんなに知らせます。全力で」
「ほんとに馬鹿だね、この子は」
雌ライオンはふんと鼻を鳴らした。
「あたしたちは明日、別の場所へ移動する。今度こそ遠慮なく獲物を狙うさ。お人好しで甘ったれの邪魔っちい奴がいないところでね。あんたの顔見たら、狩りがやりにくくてしょうがない」

いつのまにか雌ライオンは、いつもの皮肉な口調に戻っていた。
キリンは返す言葉が出なかった。安堵なのか申し訳なさなのか、自分でも判らない気持ちが渦巻き、キリンは思わず首をうなだれた。
「ちょっ……うわっ!」
雌ライオンが慌てふためいて飛びすさった。何気なく下げた頭が、雌ライオンのすぐ近くをかすめたのだ。

「あ……す、すみません」
「危ないじゃないかっ!いきなりそんなデカい首下げんじゃないよ、まったくもう!あーびっくりした。吹っ飛ばされるかと思った」
雌ライオンは肩で息をしながら忌々しげにキリンを睨んだ。だがキリンは恐怖を感じるどころか、いつもは皮肉屋の雌ライオンに似つかわしくない慌てぶりがおかしくて、思わずぷっと吹き出してしまった。そして自分が久しぶりに笑ったことに気がついた。

「何だい、何がおかしいのさ」
「すみません……でも百獣の王と言われるライオンさんが、僕みたいなの相手にあんなに慌てるなんて……ふふっ……あいたっ!」
鋭いライオンパンチがキリンの前脚に飛んだ。
「痛いじゃないですか。そんなに真剣に怒んないで下さいよ」
「うるさいね、ちゃんと爪はしまっといてやったよ!」
雌ライオンは腹立たしげにガリガリと地面を引っ掻いた。確かにキリンの脚には、小さなかすり傷ひとつついていなかった。

「大体あんたは自覚ってものが無さすぎるんだよ。昨日も言っただろ?あんたのそのデカさは、それだけであたしたちにとって結構な脅威なんだよ」
「そんな、脅威だなんて大げさですよ。まあ確かに象さんなんかは、怒るとめちゃめちゃ怖いですけどね。だって象さんは僕と違ってガタイもいいし、牙もあるし。あのぶっとい鼻で殴られたら、ちょっとヤバいですよね」
雌ライオンは、ぎっとキリンを睨み上げた。

「そのかわりあんたには長い脚とカチカチのひづめがある。そんなので蹴られたら、こっちはたまったもんじゃない。そして何より遠くまで見通せる長い首があって、いち早くあたしたちを見つけることができる。あんたたちのせいで、これまで何度狩りを邪魔されたことか。何も鋭い爪と牙だけが武器ってわけじゃない。あんたにはあんたの強みがある。相手の強さにビビるのは臆病者だけど、自分の持ってる強さに気がつかないのはただの馬鹿だよ」

キリンは思わず苦笑した。
さっきから一体、何度馬鹿呼ばわりされたことか。
だがライオンの言葉は、不思議とキリンの心に染み入るものがあった。
自分自身の強みなど、キリンはこれまで考えたこともなかった。仲間のキリンたちには要領の悪さを馬鹿にされ、水場で顔を合わせる他の動物たちにも、ただいいように扱われるだけの軽い存在だとばかり思っていた。みんなにできて、自分にはできないことばかりが頭の中にこびりついていた。

自分にできること。自分だからできること。

様々な思いが頭の中を駆けめぐる。でもはっきりとした答えは見つからなかった。これまでに染みついた考え方は、そうあっさりとは覆らない。
でも、とキリンは思い返した。
雌ライオンは、仲間ともども飢えるのを承知で自分との約束を守ってくれた。
インパラたちは、その身をかけて自分を守ろうとしてくれた。
自分という存在は、それだけの価値があるのだろうか。守りたいと、誰かに思ってもらえる何かが。
でも、あのシマウマは僕のことを……。

そこまで考えた時に、さっきの雌ライオンの言葉が頭の中に甦った。
――この広い世の中にはそういう奴もいる。ただそれだけのことだ。
キリンは微かに息を吐くと、小さく俯いた。

「――さておしゃべりが過ぎた。そろそろ帰るとするかな」
気怠そうな雌ライオンの声に、キリンはいつしか閉じていた目を慌てて開けた。だがそんなキリンに構うことなく、雌ライオンは大きく伸びをすると、ぶるっと体を震わせた。そしてくるりと向きを変え、そのままゆっくりと水辺を背にして歩き出す。
キリンは思わず口を開きかけたが、何を言いたいのか自分でも判らなかった。感謝とも寂しさともつかない不思議な感情が入り混じったまま、ようやく一言だけ口にする。

「……お元気で」

雌ライオンはもう答えなかった。まるでキリンのことなどすっかり忘れたかのように悠然と歩いていく。
すると二頭のライオンの子供がどこからともなく飛び出してきて、母親の体にじゃれついた。きっと少し離れたところで藪に隠れて様子を伺いながら、母親の帰りを待っていたのだろう。
夕焼けに紅く染まった茂みの向こうにライオンの親子が連れ立って消えていくのを見届けると、キリンもまた水場から離れた。そしていつものすみかとは違う、見知らぬ林に向かってゆっくりと歩いていった。


「ねえキリっちー!今日はちゃんと見ててよね」
「昨日みたいにぼんやりしないでよ」
「マジでめっちゃ怖かったしー」

例によって口々に言いつのるインパラたちに苦笑いで応じると、キリンはゆっくりと首を伸ばして遠くを見渡した。今日も水場は多くの動物で賑わっている。
その中でキリンは、例のシマウマが物問いたげにこちらを見ていることに気づいた。知恵のまわる彼のことだ。無事に逃げおおせたものの、昨日の狩りに潜んでいた不自然さを鋭く感じ取っていたのかもしれない。
――他の奴なら倒せたはずだ。
彼の眼はそう言っていた。
それなのに、あいつらがやられなかったのは何故なんだ。

彼の探るような視線を正面から受け止めたキリンは、しばらくの間じっと彼を見つめていた。
だが彼の疑念に答えるつもりはなかった。答えたところで彼に理解してもらえるとも思わなかった。キリンはシマウマの視線をとらえたまま、静かに水辺に佇んでいた。不思議ともう何の怒りも湧いてこなかった。

やがて最初に目を逸らしたのは彼の方だった。
キリンの穏やかだがまっすぐな視線を眩しがるかのように何度かぱちぱちと目をしばたたかせると、ふいに顔をそむけた。そしてそのまま背を向けて水場から去っていく。もう二度と彼と言葉を交わすことはないだろう。
次第に小さくなっていく彼の姿を見つめながら、キリンはゆっくりと大きく息を吐いた。

その瞬間、むせるような草いきれに混じって、微かな匂いが漂ってきた。水場の動物たちも、一頭残らずぴたりと動きを止める。
風上から来るなんて……?
キリンは長い首を目一杯に伸ばした。
吹き渡る風が一瞬強くなり、ライオンの匂いがはっきりと水場に届いた。

「キリっち……?」
震える声でインパラが尋ねる。他の動物たちも緊張を露わにして、匂いのする風上を見据えたままピクリとも動かない。
キリンはなおも風上に向かってじっと目を凝らした。

――はるか遠くにライオンの群れが見えた。
たくさんの動物たちがいる水場には何の関心も示さず、群れでゆっくりと草原を横切っていく。恐らく昨日雌ライオンが言っていたとおり、どこか別の場所にみんなで移動するのだろう。
運ばれてくる風の中に、あの尻尾の折れ曲がった雌ライオンの気配を確かに感じ取ったキリンは思わず微笑んだ。

「ねえ、大丈夫なの……?」
ふと気づくと、みんなの視線が自分に集まっていた。誰もが不安そうな表情を浮かべて下からキリンを見上げている。
キリンはもう一度風上に目を向けた。ライオンたちの姿がだんだんと小さくなって草原の彼方に消えていくのを見届けると、ゆっくりとみんなに向き直った。

「心配ないよ。大丈夫」

自分を見つめている仲間に聞こえるよう大きな声で答えると、キリンは前脚を大きく開き、ゆっくりと水面に向かって頭を下げた。
きらきらと光る水の煌めきに照らされたその顔には、まだ柔らかな微笑みが浮かんでいた。

(了)

*最後までお読み下さり、ありがとうございました。


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