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あなたとお茶を、家族のように

【ここでは義理の母を「母」と呼び、実の母は「私の母」と表記します。ご了承下さい】

今から20年以上も前。
結婚を控えた私が、初めて相手の両親に挨拶に行った時のことである。
俗に言う嫁姑問題は、往々にして初対面からそのタネが蒔かれることも多い。私は緊張しながら相手の家にお邪魔した。

初めて会った相手の母は、想像以上に若かった。
事前に年齢は聞いていたが、それを頭に入れていても驚くぐらいだ。
ちなみに母は、その時48歳。
小柄でにこにことしていて、とても感じのいい女性だった。

「緊張しないで」
と微笑みながら、用意してあったケーキを出してくれる。
だが私は、会った端から強烈な違和感を拭えなかった。

まずその服装だ。地味な色合いの普段着、というよりは部屋着に近いような服の上から、カジュアルな割烹着のようなものをすっぽりと被っている。
どう見ても客、しかも息子の婚約者が来る時の服装ではない。

違和感と言えば、頂いたケーキもそうだった。客用のティーセットなどではなく、各自バラバラのカップと皿で出された紅茶とケーキ。

更に極めつけは、後から出されたお茶だ。
本当にただの ” 湯呑 ” だった。やはりこれも、みんなバラバラ。
父と母の湯呑はどうやら普段使っている物のようだ。
既に家を出ていた息子には「あんたはこれでいいわね」と適当な湯呑をあてがった。
そして私には、花柄の小ぶりなグレーの湯呑。

ここまでお読み下さった読者の方々の反応は、恐らく真っ二つに分かれたのではなかろうか。

「マジで?信じられない」

または

「は?何がおかしいの?」

当方の事情を説明しよう。
私の生まれ育った家は ” お客様はきちんとした物で迎える家 ” だった。
事前にあちこちを掃除し、服装はもとより茶器・お菓子に至るまですべて余所行きのお客様仕様。
別にいいとこのお家でも何でもない、ごく普通の一般家庭だ。
だからこそ、たまに来る客は ” きちんと ” もてなすのが鉄則。そういう家だった。

事実、私の家に相手が挨拶に来た時は、まさにその真骨頂であった。
しかも娘の結婚相手となれば、その後の付き合いにも影響する。
私の母は精一杯気を回して、未来の婿をもてなした。

揃いのコーヒーカップとデザート皿。
お茶を出す時は茶托付きの客用茶碗。
私の母はもちろん、普段はくたびれた服を平気で着ている父も、それなりにこざっぱりした服を着て迎えてくれた。

そういう家で、私は育ったのだ。
そして相手の家に行ってみたら……冒頭のような状況であったわけである。
私が仰天したのもお判り頂けよう。

正直、最初は周到に仕組まれた嫁いびりか、と勘繰らないでもなかった。
だが母にはまったくそんな素振りもない。
優しげな表情は終始変わらなかったし、「式でも何でも、とにかくあなたの好きなようにすればいいのよ」と何度も言ってくれた。その言葉に嘘はないように思えた。
そしてお暇いとまするときに一言。

「よかったら、また来てね。息子なしで、あなた一人でも歓迎するから」

ありがとうございます、と答えつつも、内心そんなことあるだろうかと私は訝しんだ。何年も先ならともかく、当面は自分だけで来ることなど、ある訳がない。

まさかその母の言葉が現実になるなど、この時の私には知る由もなかった。

それから約1年後、無事私たちは結婚した。
子供の結婚は初めてで、しかも娘のいない母は、結婚の準備についてはいつも控えめな態度だった。自分より年上の私の母を立て、私に向かって「あなたの希望を最優先にして」と言い続けた。

結婚式当日は、出席者から三回も ” 新婦の友人 ” に間違えられ、私や私の母は何と失礼を、と真っ青になったものだが、当の本人は「若く見られちゃった」と大喜びしている有様だ。
いろいろな意味で、私にとっては規格外の母だった。

二週間にわたる新婚旅行から帰ってきてから一週間後。
私たち新米夫婦は、突如父と母に呼び出された。

母に病気が見つかったのだという。
病状は深刻で、すぐにも大きな病院に入院する必要があるとのことだった。

思い当たるふしは無くもなかった。
最初に会った頃はそうでもなかったが、式が近くなるにつれて、何となく具合が悪そうなことが増えた。式の食事の試食会も体調不良で遅れてきて、かつあまり食が進んでいなかったことを思い出す。

母の名誉のために書いておくが、結婚前に病気を隠していたわけではない。
むしろ慶事に水を差してはいけないと、病院に行くのを後回しにしていたようだった。

母はすぐに入院が決まった。
私は結婚三週間で、母の介護を担うことになった。
介護と言っても入院しているのだから、直接的な世話があるわけではない。ただ会いに行って、買い物や院内のコインランドリーで洗濯をするぐらいだ。

しかし母の病状は思いのほか厳しかった。
主治医からの通告は「余命三ヵ月」。
初めて会ってからまだ一年そこそこではあったが、私は母が好きだった。
女手のないこの家で、自分にできることはと思って毎日病院に会いに行った。約1年間に亘って入退院を繰り返す中、私が病院に行かなかった(行けなかった)のは、たったの2日だ。

そして奇跡が起きた。
思ったより薬が効いたのか、母はいったん持ち直した。

もちろん完治したわけではない。ただ宣告された三ヵ月が経った頃、母は見違えるほど元気になっていた。
家族みんなで小さな1泊旅行にも行ったぐらいだ。
ずいぶん痩せて、食もかなり細くなってしまってはいたが、病院にいた頃よりはずっとよく食べられ、歩けるようになった。

しかし秋が始まる頃、再び母の調子は悪化した。
化学治療のために数週間入院し、その後しばらくは家で過ごすというルーチンが再び始まる。私の病室詣でも再開となり、時に母の頼みに応じて家に行くことも増えた。

その頃になると、父はあまり母に構わなくなっていた。
もともと不仲だったとは聞いていた。だが母の病気が判明した時には、父はいろいろと手を尽くしていた。病院側に「なぜ治せないのか」と詰め寄った挙句に女性の主治医を泣かせたり、様々な民間療法に手を出したりもした。

だが再び闘病が始まる頃には、ほとんどのことを嫁である私に任せるようになり、父が母の病室を訪れることは少なくなった。
「もう少し病院に来るよう、お父さんに言って下さい」と私が主治医に何度か怒られたぐらいだ。

その一方で私と母は、ほぼ毎日のように会っていた。
「私にとって、あなたは外の風だから」と私の来訪を喜び、
「新婚さんでいちばん楽しい時期なのにごめんね」と何度も詫びた。

冬が深くなり始めた頃、私は母に告げた。

「お母さんと毎日会うようになってもうすぐ1年だけど、何だか10年分ぐらいの濃さだった気がする」

母はじっと私の顔を見て言った。

「――うん、私もそう思う。あなたがそれを重く感じてなければ嬉しいけれど」

いや全然と笑う私に、母はあることを教えてくれた。

「あのね、あなたのあの湯呑。あれは息子から『結婚したい人がいる』と聞いて買いに行ったの。近くの百貨店で陶器市が開かれるのを待ってね、そこで買ったの」

私の湯呑とは、あの最初の挨拶で出された小さな湯呑のことだ。
結婚以来、私が向こうの家に行くと決まって使われるので、なかなか活躍をしている。ちょっと小さすぎて、すぐに空になってしまうのが難点だが。

母は続けた。

「——でもまだあなたに会ってないから、どんな子か判らないでしょ?。だから想像しながら選んだの。でもお客様じゃなくて新しく家族になるんだから、普段使いの湯呑にしたのね。ここもあなたの居場所と思ってもらえるように」

私は脳天を殴られたような気分だった。

そうか、私は ” お客様 ” ではなかったのだ。
母は敢えて ” お客様のもてなし ” をしなかったのだ。

あらためて私はその湯呑を思い出す。
小さな赤いチューリップらしき花模様が点々と描かれた、グレーの可愛らしい湯呑。
長い入院生活で、部屋にたくさんの花を飾るうちに知った。
母はチューリップの花が大好きなのだ。

――新しく、家族になるのだから。

それが母の「もてなし」だった。


「お客様には上等のものを」という私の実家の ” 方針 ” を、私は今でも否定しない。やはり礼儀というものは重要だ。
だが世の中には、それとは違う考え方もある。

もてなしは歓迎の証だ。
では、どう歓迎するのか。それはもてなす側に委ねられる。

家族だからこそ、気取らず普段使いのものを用意する。
もてなすと言えば、茶菓子でも食器でもいいものを出すことと信じて疑わなかった私にとって、母のその考えは文字どおり真逆と言ってよかった。当時の私が違和感を覚えたのも当然だが、その裏には母の深い心が秘められていたのだ。

それは誰が、何が正しいという類のものではない。
世の中には自分と違うものさしを持つ人がたくさんいる、という事実。
ただそれだけのことだ。

なのに人は、なかなか判り合えない。自分の中の常識や価値観に囚われて、つい使い慣れたものさしに手が伸びる。いや、他人が自分と違うものさしを持っているということにすら、思いが及ばないことも多い。
己のものさしと違う、と気づいたら気づいたで「あり得ない」と即座に切り捨ててはいないだろうか。
恥ずかしながら、そんなこと私はしょっちゅうだ。ちっぽけで偏った知識や常識をよすがに、つい他者の思惑を測りたがる。

だが、この時ばかりは違った。

「あなたと家族になる」

暗く陰った病室で告げられたその一言は、私の心に明るく、暖かい灯をともしてくれた。


その一か月後、母は逝った。
それから20年以上が経った今でも、私は母のことが好きだ。
良くも悪くもお堅い家に育った私に、たくさんの気づきと想い出を残してくれた。あの時母から手渡されたものさしは、今も確かに私の手元にある。

いつか再び会うことができたら、また一緒にお茶をしよう。
私たち二人の大好きなカステラと、互いにお気に入りのカップや湯呑を用意して。

(了)

*最後までお読み頂き、ありがとうございました。
*この記事は「Panasonic×note #思い込みが変わったこと 」コンテストに参加しております。

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