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習慣の前にある見えない壁(日記)

1月6日

古井由吉の『夜明けの家』に入っている「祈りのように」を読んだ。

語り手といっていいかは微妙な「私」が、知人から聴いた六十前後の夫婦の最期についての話。「私」はその夫婦の事は知らないしその知人も死んでしまって、その話は「私」にとって距離のある存在だけれど、日を経てもはっきりとした印象をともなって記憶から蘇ってきてその話を回想する。

旦那が六十手前で精神を病み、そのあと脳の病気にかかり、大事には至らなかったものの精神は自閉の傾向をもち、認知症も発症し数年後には亡くなってしまう。その数年間についての夫人の思いや感情についての語りが話の中心となる。

だから物語性みたいなものはほとんどないけど、ものすごい強度で夫人の感情や、夫婦間の存在についての描写や、物事や状況についての捉え方が描かれている。著者の表現と、言葉と、感情についての洞察だけによって書かれているみたいな感じ。

内面性の重奏を凝縮したような感じは、言葉によってしか表現できないなと思った。私は楽しく読んだし読み応えはあるけど、ただそれに一般的な価値がどれほどあるのかはわからない。文章を書く人には勉強になると思う。文学的だなと思うし純文学的だと思う。


O・ヘンリーの短編集の中にある「警官と讃美歌」も読んだ。

O・ヘンリーって昔から本屋で見かけていたけど初めて読んだ。なんで長年本屋に並んでいるのかすぐにわかった。
最近短編ばかり読んでいる。長編を読む体力がないし色々なものに手をつけてしまう。

「警官と讃美歌」は短編小説のというか物語の教科書のような話で、設定や展開やオチが明解である。良い意味でも悪い意味でも。著者の観察力にもとづいた人物描写も随所に光っていていい。


安部公房の「手」も読んだ。

語り手の鳩は戦争の時に使われた伝書鳩で、戦争が終わって見世物小屋で使われたり、はく製にされたりと姿を変えていく。飼育係である飼い主の「手」との物語が描かれる。
鳩が語るというのは、動物が語るという意味で小説としてはよくあるものだけど、さらにはく製にされたり像にされたりしても語っているというのは変わった小説かなと思う。超現実主義的と言ってもいいのかもしれない。

なんでそんなことをやっているかというと、これがしたかったからだろうな、というような事が文中で書かれている。語り手の鳩は鳩の像にされるときこのように語っている。

命がなくなったというような、当たり前のことは別にしても、おれは一箇の完全な物体になり、そればかりでなく、おれは一個の観念そのものなった。いや、観念そのものになりつつあった。男の手の中で、おれは観念に造型されつつあるのだ。これは大へんなちがいようではないか。感覚の積分値であるにすぎなかったおれから、おれは意味の積分値に変形したのだ。

安部公房は生から物へ、感覚から意味への思考実験をやっている。あるいは存在の変形を楽しんでいるという感じ。

この作品も安部公房らしい不気味な雰囲気が漂っていていい。
安部公房の文章って、文章が著しくホラー的であったり、夢枕獏とかポーとかラブクラフトの訳みたいに硬い感じではないのに、不気味な不安定感を持っていて良いなと思う。それは言葉の使い方と物語の展開と発想に由来してると思うんだけど。


1月7日

五年ぶりに行くコーヒー豆専門店でガテマラのコーヒーをテイクアウトして飲んだ。凄い香りの量だった。香りに圧倒された。例のごとく飲み口が少ししかあいていない容器なのに口を近づけただけで香ばしさを感じた。

飲んでみるとナッツ系の香ばしさ。水のようなさらりとしたボディ感。後味に苦味があった。香りが予想外で美味しかった。ガチなコーヒーってこんなことになってたのかと感心した。



日記を書いていこうと思ったけど、よく振り返ってみれば書いていく日常なんてないことに気がつく。書かれるほどの日常も思考もない。

そうすると日記を書くための日常をおくろうとなって、それってなんというか物事の順序が逆ではないかと思ったりした。でも仕事とはそういうものかもしれないし、何かをやっていこうとする時にはそのような義務感のようなものに追っかけられながらやっていくものなのかもしれない。

特に目的もなくなんとなく生きていれば望み通りの人生になったり、待っていれば天から恵みがふってくるようなものではないと思う。そんな事は当たり前なんだけど、目的を達成するために必要な事を準備するとか、前提を作っておくというのは実は難しかったりする。

それは、人間とは習慣に作用されるし習慣をコントロールすれば目的は達成できる、というような心理学の研究と同じ話だけど、それはやっぱり難しい。どのように習慣を作るべきか、どのような前提にもとづいて文章を書いていくべきは人による。

何でもかんでも根性論でどうにかなるものではない。例えばダイエットとか語学勉強とかがいい例だ。でも習慣化すれば人間とは目的を達成できるというのはたぶんそうなのだと思う。心理学とは厳格な科学ではないけど、ある程度人間の性質を解明することに役立っていると思う。

でも習慣化する特定の方法が誰にとっても役に立つとは限らない。自分の掲げた簡単な決まりも守れない人というのは存在する。その方法では無理だけど、別の独自のやり方なら継続できたりする。人間とはそんな不規則な存在だと思う。結局どのように何かをやるべきかは曖昧なままだと思う。
つまり目的を達成するための準備は人によって違うし難しいのだ。私は何を準備するべきなのだろう。それは私にしかわからないけど、、、


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