はぐれミーシャ純情派 黒い水①

うちへ帰ると、そこにはグーリャとアーニャが待ち構えていた。彼女はいつものように「どうも」と言って、にっこり笑った。でも、俺はそれに答えることが出来ない。何と対応していいかわからない。それにずっとフサンと外を歩いていたせいで、またも日射病になっていたのだ。俺は適当に返事をして、転げ込むように自分の部屋に行き、ベッドへと倒れこんでいった。実際、立っていられなかった。何を言っていいのかわからない俺にとっては、ある意味、好都合でもあったのだが。

グーリャはすぐにおれの部屋に入ってきた。「どうしたの?」「あの副学長と散歩してきたんだ。暑かったよ」「楽しかった~?」「飯おごってくれるのかと思ったら、俺がおごる羽目になったよ。副学長のくせにお金ないのかなあ」 彼女は笑っている。俺も笑う。何事もなかったかのように。

笑いながら彼女はうつむいた。笑い声に涙が交じっている。そして、俺の手を握った。「どこに行ってたの? 心配したんだから」 彼女はこぶしで俺の胸を叩いている。「ごめんね。どうしていいかわからなくてさ」「本当にもう死んじゃったかと思ったね。タシケントは本当に危ない町なんだから」

一番大切なことを聞かなきゃいけない。「俺のこと、まだ嫌いなの?」「ううん、そんなことないね。すごく好き」 これで元通りだ。全てまた最初から始められるんだ。「もうどこかに行ったりしないでね」

二人きりの時間は短かった。アーニャが入ってきて「もう帰りましょう」 アーニャはニコっと微笑んでいるが、目は全く笑っていない。明らかに俺に対して、いい感情を持っていないのが見て取れる。「もう帰るの?」「まだ帰りたくないね・・・」 グーリャの表情はあまりにも切なかった。「早く帰らないと、お母さんが怒るから」 彼女のお母さんは彼女の生活、ある程度のレベルで彼女の感情の部分まで支配している。それは俺にはどうにも出来ないことだ。でも、俺は彼女と付き合っているんであって、彼女のお母さんと付き合っているんじゃない。俺達二人のことに首を突っ込ませてたまるか。

「次、いつ来れる?」「まだわかんないね。家庭教師のところにも毎日行っているから」 来れない理由は家庭教師だけではないだろう。お母さんが俺のことで何か言っているのは明らかなのだ。二人の間に流れる空気は無理やり引き離されたカップルのようなものだ。一緒にいたいのに、いられない。俺たちはドラマをやってるんじゃない。現実になると、こんなに残酷なものなのか。一緒にいたい。帰したくない。

しかし、彼女は帰って行く。ベランダの窓からアーニャとグーリャが駅のほうに歩いていくのをずっと見守る。グーリャは何度もこちらを降り返って手を振る。それをアーニャが引きずるようにグーリャをせかしている。あの時のグーリャの切ない目は今も心に焼きついたままだ。

俺は彼女を待つしかなかった。電話はできない。とてもできるような状況じゃない。グーリャ以外はみんな俺の敵にまわったと見るしかないだろう。もしできることなら、彼女のうちにもう一度戻りたいが、あんな形で飛び出した以上、もう戻ることはできないだろう。同じタシケントにいながら離れ離れ。これでは東京とタシケントで遠距離恋愛をしていた頃と何ら変わりはない。むしろ、自由に電話できない分だけ、今のほうがつらいといえるだろう。

彼女が再び俺の前に姿を現したのは、3日後のことだった。前日、ラリサ叔母さんが部屋でへばっていた俺のところに来て、「明日、グーリャが来るわよ」と知らせてくれた。何時に来るのかわからないので、1日中ずっとうちで過ごす。

とにかく会いたい。一緒にいたい。失った何かを取り戻したい。

彼女が現れたのは夜7時過ぎのことだった。彼女の声が聞こえる。飛び出していきたい気持ちを押さえて、俺は様子をうかがう。うれしいことはうれしいのだが、一番恐れていた展開に・・・ お母さん同伴なのだ。彼女とラリサ叔母さんの楽しそうな声の中に、お母さんの声が混じっている。

部屋の外に出れずにいると、彼女が入ってきた。「こんにちは~」 相変わらず全く緊張感がない声だ。彼女の指には俺がプレゼントした指輪。また俺たちは一緒になったんだ。

しばらくすると、お母さんが部屋に顔を出した。「元気ですか?」「まあまあです」「それは良かったわ」 お母さんの表情や声から俺に対する強烈な嫌悪感を感じ取ることができる。笑顔が引きつっているのだから露骨である。グーリャが言うには、ここに来るのも最初は許してくれなかったのだそうだ。何とかOKしてもらったが、お母さんからの条件「私もいっしょに行きます」

二人きりの時間は短い。すぐに「晩ごはんにしましょう」というラリサ叔母さんの声。部屋を出る。裁きの場に引きずり出されるような心境だ。食事中も会話はかなりぎこちない。俺は一言も発さない。お母さんも黙りこくっている。ラリサ叔母さんやグーリャだけが何か話題を出すのだが、後が全く続かない。食事中、俺は彼女と目だけで会話をする。彼女の大きい目を見つめているだけで、胸がいっぱいになる。二人で交わす笑顔が、俺たちの最後の砦だ。誰にも邪魔はできない。しかし、お母さんは俺たちの間に流れる空気に気付いている。

食事も終わり、俺たちは二人、部屋に戻る。部屋に向かう俺たち二人の背中にお母さんの言葉が突き刺さる。「もうすぐ帰りますからね」

「まだ帰りたくないね・・・」「俺だって帰したくないよ」 グーリャは今にも崩れ落ちそうな表情。部屋のドアの向こうからは「もう帰りますよ」というお母さんの容赦ない言葉。「ここに泊まりたいね」「そうだよ。泊まっていきなよ」 俺のところに泊まるのではなくて、ラリサ叔母さんのところに泊まるのだから、何の問題もないはずだ。これまでも泊まったことなど、いくらでもあるはずなのだから。

「ちょっとお母さんに頼んでみるね」と言って、グーリャは部屋を出ていった。戻ってくるまで3分ほどだろうか。答えは「ダメだって・・・」 俺たちは渇いていく。1滴の水もない砂漠に引き出されていく。二人が交わすキスは別れのキスじゃないのに、2度と会えないわけじゃないのに、別れのキスみたいで、2度と会えないみたい。こんな悲しいキスは演技じゃできない。でも、芝居みたいだ。抱きしめれば抱きしめるほど、ほどけないロープのように。

ほどけない俺たちを、 ばっさりと断ち切るお母さんの言葉。「もう帰るから、早く出てらっしゃい!」 彼女は部屋を出ていく。俺は見送らない。二人はこの部屋の外に出てしまえば、恋人であることを隠している身なのだ。でも、そんなのみんなわかっているはずじゃないか! なのにグーリャの家族はみんな知らないふりをするから、こっちもそれに合わせなきゃいけなくなるんだ。

帰っていく二人をベランダから見つめる。前回、アーニャに引っ張られていた時と同様、彼女は何度もこっちを振り返ろうとする。しかし、今回はお母さんが相手とあってか、とがめられると、すぐに降り返るのをやめてしまった。

ラリサ叔母さんの話しだと、グーリャは「泊まりたい」とかなりねばったらしい。もちろん、ラリサ叔母さんもグーリャのほうを応援したのだが、お母さんは「ダメ」の一点張り。全く耳を貸さなかったそうだ。俺たちは二人とも壊れてしまうだろう。

俺は彼女が来るのを待つしかない。電話はできない。できるわけがない。何も食べられない。飲み物以外のどを通らない。グーリャのことしか考えられない。何も見えない。何も聞こえない。どうしていいのかわからない。俺は待つしかない。

グーリャがいつ現れるのかわからない。そもそも、来るのかどうかもわからない。今は受検勉強でかなり忙しいはずなのだから。

ラリサ叔母さんが「今日の昼頃、グーリャが来るわよ」と教えてくれたとき、俺はすぐに1つのアイデアを思いついた。料理を作ろう。

市場に行って、材料を買って料理開始。ラリサ叔母さんが後から言った事場「何かに憑かれたみたいに料理してたわね」 ほとんど何も食べていなかった俺のどこにこんな力が残っていたのだろう。

料理がほとんど最後の工程にさしかかった頃、グーリャは現れた。俺は台所でその声を聞く。今日も一人じゃない。アーニャと一緒だ。そんなの十分にあり得ることだったのに、俺は全くそのことを考えていなかった。それだけにショックは大きい。二人っきりの時間なんて俺たちにはもうないんだ。

今日はアーニャのアッシー君、ファリットも一緒だ。彼はアーニャのことがずっと好きで片想いをしている。アーニャが日本に行っていた頃を含めて、4年以上。筋金入りだ。そんな彼の気持ちを知っているはずのアーニャは彼をうまいこと利用しているのだ。ファリットはいいやつだが、今日の俺にとっては邪魔者だ。

グーリャは俺に気付かないのか、他の二人と一緒にベランダに行ってコーラを飲み始めた。俺は一人、台所で料理を続ける。俺は彼女のために料理してるのに、彼女は他のやつらと一緒に楽しそうにしている。何だよ、それ。


しばらくするとグーリャが台所に来て「何作ってるの~?」「できたらわかるさ」 俺はちょっとむくれる。「何で怒ってるの~? コーラ飲む~?」

余計なやつも交ざっているが、とりあえずみんな食卓につく。ラリサ叔母さんとアレーシアも一緒だ。メニューはカルボナーラ。グーリャが翻訳の仕事を手伝うために俺の部屋まで来てくれたとき、まだ付き合ってもいなかったときに作ったのがカルボナーラだった。「おぼえてる?」「もちろん、おぼえてるね。とてもおいしかったから」 みんな黙々と食べている。食べっぷりがいい。食べ終わった後、みんな「おいしい!」「こんなの食べたことない」と口々に言う。うまいに決まってる。食べてくれる人のため、その人への想いが深く詰まった料理はおいしいに決まっているのだ。俺は彼女のために作ったのだ。俺たち二人が始まった頃の料理でもう一度始めたい。

その日、彼女はアーニャたちと一緒にあっさりと去っていった。これまでのように、悲劇的になることはなかった。しかし、俺は悲劇的に絶望的だ。俺は一人でどうすればいいんだ。ラリサ叔母さんは俺を慰めようとするが、言葉が全く耳に入らない。俺は壊れていくけど、君はどこへ行くんだ・・・

次に彼女が来るまでの数日間、俺は何をしていたのか、全く覚えていない。数日間が数年間に感じられる。ほとんど何も食べなかった。食べたくなかったからだ。全然笑わなかった。笑いたくなかったからだ。これが演技だって言うんなら、それでもいい。ポーズだって言うんなら、言わせとけ。俺は死ぬまでポーズを取り続けてやる。

彼女はやって来たが、またアーニャと一緒だ。俺はまた二人の思い出の料理を作った。スパニッシュオムレツ。俺は必死に作った。グーリャの喜ぶ顔がまた見たい。立っているのがやっとなのに、俺は一心不乱に料理を作る。

当然、料理は大好評だった。「タシケントでレストランでもやったら?」

食後、俺は食べ物がのどを通らないのと強烈な暑さのせいで完全ノックアウト状態。ベッドから起きあがれない。彼女は部屋に入ってきたが、いつもと何か違う。妙によそよそしい。「どうしたの?」「別に~」 彼女はキスもしようとはしない。「今日はちょっと・・・」何が何だかわからない。彼女に何が起こったのか。彼女に問いただしても、話をはぐらかすばかり。そして、彼女は俺がプレゼントした指輪をつけていない・・・ 結局、その日は心も体も触れ合うことなく終わってしまった。彼女が帰っていくのを虚ろな意識の中で聞く。ベランダから見送るが、振り返る気配すらない。

部屋のベッドの上でへばっていると、ラリサ叔母さんが入ってきた。「お茶でも飲まない?」「飲みたくない」「あきら、さっき全然食べなかったじゃない。何か作ろうか?」「別に大丈夫」

ラリサ叔母さんは何時の間にか目に涙をためている。「グーリャがいるときはあんなに笑っていたのに。あなたのあんなすてきな笑顔見たことないわよ。なのにグーリャが帰った途端、別の人になったみたいよ。家族の誰かが死んだときみたいな顔してるじゃない」俺はもう涙がとめられない。ラリサ叔母さんも涙を隠さない。「あなたのこと見てると、こっちもつらくなるのよ。そんなにグーリャのことが好きなの?」「はい」「でも、そんなに苦しんで・・・ すっかり痩せちゃって。このままじゃ、本当に死んじゃうわよ」

ラリサ叔母さんはあきらめた様子で「じゃあ、何か食べたくなったらすぐに言ってちょうだい。何か作るから」と言って、部屋を出ていった。

もう彼女が来るのをおとなしく待っていることはできない。自分では電話できないから、アレーシアに頼んで電話口までグーリャを呼び出してもらう。「元気~?」 いつものグーリャのあいさつなのだが、何かが違う。「明日こっちに来れる?」「明日は勉強があるからダメね」「じゃあ、あさっては?」「あさってもちょっと・・・」 明らかに避けられている。「どうして? 会いたくないの?」「私は受検勉強があるね。今年は絶対に合格しないといけないね。だから・・・」 理由がそれだけとはとても思えない・・・

今までの俺の経験からいくと、一度別れた後によりを戻してもそれは長続きしない。それは愛というよりは単なる執着に過ぎないことが多いからだ。

でも、今の展開は読めない。単に彼女が俺のことを嫌いになったのか、彼女の家族が俺とつきあうのを反対しているのか。どっちにしても状況は厳しい。嫌われるのはもちろん嫌だし、彼女にとって「家族の言うことは絶対」なのだ。

アレーシアを使って何度か電話をしたが、答えはいつも同じだった。

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