はぐれミーシャ純情派 タシケントな時間② 7月24日

7月24日(月)

最近、よく夢を見る。親が出て来たり、日本の風景が出て来たりという典型的なホームシックの症状だ。あまりにもあからさまである。これではフロイトも分析のし甲斐がないだろう。ホームシックの夢ならまだいいが、今日の明け方は彼女の夢だった。そんなにいい内容ではなかったが、やはり恋しくなってくる。目覚めの気分は最悪。胸が苦しい。落語に出てくる若旦那もきっとこんな恋煩いをするのだろう。俺がタシケントに残ればきっとまだチャンスがあるはず、なんていう甘い期待まで湧き出してきた。しかし、チャンスなんてものが全くないことはこの俺がよく知っている。心のなかで綱引きが始まる。タシケントを去ることを決めて以来、初めて決心が揺らいだ。

ベッドから起きて台所に行くとラリサ叔母さんがお茶を飲みながら一服していた。おれは、精神状態が表情とかに出やすいほうなので、ラリサ叔母さんには俺が苦しんでいるのがすぐわかってしまったようだ。ラリサ叔母さんは俺がタシケントを去ることに一貫して反対している。

このときもまた「タシケントに一年間住みなさい。大学が始まれば友達もできるし、新しい彼女も絶対にできるから。アレーシアも寂しがるから、ここに残って欲しいわ」といつものように言ってきた。

しかし、問題はそう簡単ではない。タシケントに残ろうがどこにいようがこの苦しみはそう簡単には消せない。ただ、他のところに行けば少しだけ早く忘れられるかもしれないと期待しているのだ。いつもはラリサ叔母さんの言葉を笑ってかわせるのだが、反応することさえ出来ない。ここに引っ越してきたときもこんな風に苦しんでいたっけ。久しぶりのビッグウエーブ。

すると、ラリサ叔母さんが変なことを聞いてきた「占いとかって信じる?」。俺が信じるのは「週末占いカウントダウン」だけだ。あまり信じないと答えると、叔母さんは「わたし、いい占い師を知っているんだけど」と言ってきた。叔母さんが言うには、彼女を信じるかどうかはそれぞれの勝手だが、彼女の言葉を聞いていると気持ちが楽になるのだそうな。あまり気は進まなかったが、あまりにも強く勧められたのとウズベキスタンの占いがいったいどんなものか見てみたかったので行くことにした。

タクシーで着いたところは住んでる人のほとんどが普通のウズベク人。彼らの家の多くが平屋である。明かにウズベク人しか住んでいない住宅街の中に占い師の家はあった。占い師の名前はシューラ。シューラおばさんはにこやかに我々を迎えてくれた。ラリサ叔母さんとは長い付き合いのようだ。

シューラおばさんの前に向かい合って座る。傍らにはテーブル。まず、ラリサ叔母さんが俺の今の状況を簡単に説明した。するとシューラおばさんはテーブルの上から水の入った茶碗を取り上げ、その水面に指をつけた。水面から目を離さずに、その指についた水をテーブルの上に撒き散らしている。そして、やはりこちらを見ずに水面を見たまま、穏やかな口調で語り出した。

「あなたが今何かのアクションを起こしてもうまくいきません。今はその時期ではないのです。あなたがどこに行ったとしてもその苦しみは続くでしょう。しかし、すばらしい道があなたの前に開けてきます」まあ、よく聞くような内容である。

「必ずあなたにあった仕事が見つかります。あなたはきっと有名になります。それは今の仕事でではなくて、何か思いもつかないようなほかの仕事でです。それは文筆業のようです。翻訳家か作家かはわかりませんが、その類のものでしょう」そりゃあいい。印税生活が俺を待っているのか。

「母親とその娘の姿が見えます。この二人はあなたに対して何か思っていることがあります。果たしてそれがいいことを考えているのか、悪いことをたくらんでいるのかわかりませんが」すると、ラリサ叔母さんが彼女とその母親について詳細に語り出した。シューラおばさんは「一年か半年で節目が来ます」彼女と出会ってからちょうど半年ぐらいだ。当たってる。
「彼らの目的はお金です。日本にいたときは違ったかもしれませんが、ここではほとんどの人がそのような志向を持つようになるのです」ずいぶんはっきりと言ってくれるじゃあないの。

「あなたには必ずいい女性が現れます。それはあなたの身近にいる人です。あなたとその女性はすでに知り合いです。友達かもしれませんし、親戚かもしれません。今の段階では恋愛感情はないでしょうが、いつかきっとそうなります」どんな占いをやってもこの答えが返ってくる。思い当たる人がいないな。あんまり。

「お母さんを大切にしたほうがいいです。あなたの運命はお母さんにかかっています。お母さんを大事にすれば、きっといい道がひらけてきます。ただ、お母さんは健康に少し問題があるようですね」おいおい、当たってるよ。ちょっと高血圧だからしょっちゅう薬を飲んでいる。ぴたりと当てられるとなんだか気味が悪い。ざっとこんな内容である。確かに気持ちは楽になった。とにかく俺の前にはいい道がひらけているってことだ。200スムを置いて部屋を出る。

今度はラリサ叔母さんの番。いつものように自分の姉(つまり彼女の母親)のことを愚痴っている。姉妹なのにお互いにぼろくそに言っている。単なる兄弟げんかの域を越えていて、もう憎悪に近い。俺には関係のないことなのになぜかその話しの聞き役になってしまっている。俺は笑福亭仁鶴じゃあないから、まーるくおさめるなんてことは出来ないのに。

朝から続いていた心の揺れが止まった。ミンスクに行こう。占いも作用しているのかもしれないが、これは自分の意志だ。はじめっから決めたことを変えるつもりなんてさらさらなかった。ただ、一歩前に踏み出せなかったのだ。誰かが背中を押してくれるわけではない。自分で決めたことは自分の責任で実行しなければ。でも、心のなかは矛盾だらけ。矛盾している要素の片一方だけをたどって進む以外に道はない。

そこから、タクシーで大学に行く。今日は、ちょっと大変な作業がある。契約を破棄するために、演技をしなければならない。気持ちを悪いほうに盛り上げて、悲しそうな顔をする。今の俺は泣きそうな顔をする理由には事欠かない。フサンの部屋の前でちょっと緊張。思いきって部屋に入るがフサン(副学長)は留守だった。旅行に行ったまま戻ってこないのだという。

フサンの秘書のようなウズベクのおばちゃんに今の状況を説明する。「水曜日に『お父さんが倒れた』と連絡がありました。今病院に入院しています。意識はありますが、当分仕事が出来ない状態です。家族はみんなぼくが帰ってくることを望んでいるが、当然僕はここに残りたい。今日までずっと悩んでました。やはり帰らなければならないようです。親は帰ってこなくていいと言っていますが、僕には親が強がっているのがよくわかります。僕の兄が言うには状況はあまり良くないのです」よくもここまで嘘がつけるもんだ。思っていた以上にスムーズに口は動いていく。表情もばっちり。

おばちゃんは完全に信じているようで、「あなたがつらいのはよくわかるわ」と何度も言っている。こうも完全に信じられると、ちょっと罪悪感にとらわれる。でも、しょうがない。こんな理由でもつけないと契約を破棄するなんて出来ないだろうから。パスポートはレギストラーツィア(外国人登録)の手続きが遅れているので明日になるという。とりあえず最後まで演技をつづけた。おばちゃんは大丈夫。問題はフサンの前でどう振舞うか。そして、契約破棄に対する向こうの出方である。一抹の不安が残る。

火曜日の午前中、フサンに会うために大学に行った。昨日のおばちゃんの反応からすると今日もうまくいくかな、と思った。しかし、そううまくいくものではない。昨日と同じように、苦しそうな顔で迫真の演技をしていると、フサンの顔がどんどん曇っていった。近くにいた秘書らしきおねえちゃんにウズベク語でなにやら話している。もしかしたらビザのお金を払ってもらうことになるかもしれないとのこと。「この件について学長と話をするから、お昼過ぎに電話をしてくれ」お昼過ぎに電話をすると、おばちゃんが出て「フサンは今いないから、4時ごろに電話して」4時ごろに電話すると、誰も受話器を取らなかった。何らかの悪意を感じざるを得ない。とにかく早くパスポートを手に入れなければ。

水曜日の午前中また電話をすると、今日はパスポートを受け取れなかった、と言う。そして、木曜日はレギストラーツィアをやっている役所が休みだから、明日は受け取れない、金曜日の午前中には確実にパスポートが戻ってくる、金曜日の12時に電話をしてくれ、とのこと。もしかしたら、パスポートを返す気がないのかしら。お金のことを聞くと、ビザのお金は50ドルだ、と言ってきた。なんとか払えるかもしれないと答えてしまった。  

その日の3時にナターリヤさんに電話をした。ナターリヤさんは俺がロシア語の劇をやったときにお世話になった人で、ミンスクの大学で先生をやっている。再就職の口を探してもらっているのだ。とりあえずミンスクに行くことで話がまとまっているのだが、招待状がないとビザが取れない。招待状を個人で出すのは少し難しいと聞いている。その件がうまくいっているかどうか確かめるために電話をした。しかし、留守。5時ごろに電話をしてくれとのこと。

5時すぎに電話をすると本人が出た。招待状を出すには二週間ほどかかるとのこと。7月中にはウズベキスタンを出ることを告げ、ホテルかどこかにファックスで送ってもらうことにした。それにしても、いつもナターリヤさんは元気で俺のことを助けてくれる。もちろん精神的な意味でだが、今回は俺に招待状を出すためにいくらかお金を払ったらしい。「とにかく気をしっかり持ちなさい。きっとうまくいくから」俺もそう思いたいんだけどね。ミンスクに行ったところで仕事にありつける保証はないのであった。それが一番の問題だ。

二週間待っている間、どこかにじっとしてるのも嫌なので、旅行がてら仕事のありそうな大きな町に訪ねて行って、直接に交渉しようと思う。冒険心がうずうずしている。ナターリヤさんは「誰も信じちゃダメ。外国人をだまそうとする人がロシアにはたくさんいるから」確かに危険な香りがぷんぷんする。いい仕事が見つかったら契約を結ぶ前にナターリヤさんと電話で相談するということにした。

その電話の後、珍しくここの家族が全員そろった。そこでこのことを言うと、アントンが「お金なんか払う必要はない。お金がないからといって断ればいいさ」と言う。そんなことできるのだろうか。

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