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  2-⓴ 50➕50

「余命3ヶ月・・・」
その言葉の意味を理解するのに、翔馬にはしばらくの時間が必要であった。

 発見するのが困難な、スキルス性の胃がん・・・昨秋の摘出手術は確かに成功したのだが、悪性の硬い繊維組織を作りながら、じわじわと彼の体を蝕んでいったのだった。

 信じる事ができなかった。
しかし・・・身内である娘の久美さんは元より、蒼井先生、盟友の先生達、そして厩舎のスタッフ達には先程全てを話したと。明日JRAにも報告すると、師は続けた。

「何で・・・どうして?・・・先生が・・・」

 止めどなく、涙が流れ出す。

 翔馬は・・・泣いた。
師は、ただただ、翔馬を見守った。

 やがて、翔馬が涙で濡れた顔を上げた時、師は言った。

「俺はこの世界に入って本当に良かったよ。騎手としては三流だった。けれど、調教師になる事ができて、たくさんの理解ある馬主さんのバックアップを受けて、たくさんの馬に囲まれて、素晴らしいスタッフに、そして何よりも最高の弟子に出会えたからな」

 師は湯のみを手に取り、喉を潤す。そして話を続けた。

「あいつが言ったんだ。お前、あいつを弟子に取らないと一生後悔するぞ!ってな。後悔しなくて良かったよ。お前をこの道に導いてくれたあいつには本当に感謝しかない。
 お前はな・・・ホースマンだ。馬を愛する、馬の心がわかるホースマン。
 お前の師がこの俺であるように、俺にも師と仰ぐ大切な恩師がいる。馬の全てを、数え切れぬ程の事を教わった。
 その中でも、絶対に忘れられない言葉がある。

 happy people make happy horse

 幸せな人間が、幸せな馬を作る。と言う意味だ。

 彼らを悲しませてはいかんぞ!お前がいつまでも泣いていれば、彼ら、彼女らにも、その気持ちが伝わる。俺はな・・・お前のお陰で生きた証を残す事ができた。お前もこの世界に生きた証を残さねばならん。わかるな?」

 翔馬はむせび泣きながら、師の顔を見つめた。

「お前は一生ホースマンだ。今までお前が関わってきた競走馬の、そしてこれから出会うであろう競走馬達の思いの全てを背負って生きて行け!それが、お前の生きた証となるから。俺ももう少しだけその手助けをしてやるから」


 まだまだ教えてほしい事はたくさんある・・・。

 下手な騎乗をした時にも、お前が乗って駄目なら誰が乗っても駄目だ!と庇ってくれた。決してそんなことはないのに。

 けれど、調教には厳しい師であった。
「調教はな、100%の力を出させるものではない。彼らが走る事が大好きになるように、レースでこそ100%の力を発揮する事ができるように導いてあげる、手助けをしてあげるのが調教・・・それが、俺たち、ホースマンの仕事なんだ」

 デビュー当時、指示された調教時計を守れなかった時には、カミナリを落とされた事もあった。

「俺の厩舎の馬ならば、俺が責任を取る。しかし、他の厩舎の馬ならばそうはいかん。お前はプロだ。甘えてはいけないぞ!とにかく、馬の事をよく考えろ」

 優しくて、時に厳しい師であった。


 ワインとチョコとスイーツが大好きで、誕生日プレゼントに贈った赤ワインを久美さんに自慢げに見せていたっけ。
そういえば、あの日は珍しく酔い、
 「お前、久美に誰かいい奴紹介してやってくれ!」と、冗談とも本気とも取れるような事を言って、久美さんに睨まれていたっけ。

 誕生日だったダートG1で勝利した時、師からもらったプレゼント。
 世界で唯一つの、オーダーメイド、18金仕様のG-SHOCK。
 騎手仲間は皆、「凄え!めっちゃかっこいいなあ!」と、左手首を引っ張り合い、羨望の眼差しで見ていたなあ・・・。
 翔馬は左手首に巻かれている宝物のG-SHOCKをお守りにしている。

 もっと、もっと一緒に・・・。

「俺もな、お前との思い出はたくさんあるぞ!俺はそれを忘れる事は絶対にない。永遠にな。お前もそうだろう?」

 翔馬は涙を拭いて、そして頷いた。
「はい」
「その気持ちがな、魂になる。魂はな、たとえ肉体が焼かれても消える事は無い。お前は立派な魂を持っている。お前に教える事は、もうない。あとは、お前が自分で切り開いていけ!お前を愛する、たくさんの人たちの思いが、お前の背中を守ってくれる。俺もそのうちの1人だ!」

 1人のホースマンとして、育ての親である師の思いを受け継がねばならない時が来た事を彼は理解した。

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