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人と組織. 20 - 日本における人づくりの課題 (2)

私は、人を育てる人材育成というのは、単なる学びのための制度や手法論ではなく、環境が非常に重要ではないだろうかと考えている。

私にとって仕事は人生の道場みたいなもので、全てとは言わないまでも大事なことは、大方、仕事に教えてもらったと思っている。

打たれ強さとかプレッシャーへの耐性、リスクテイクする決断等、全て仕事で学んだものである。

例えば、若い頃は、給料は安かったので、食べていくだけで精いっぱいであった。

6畳と4.5畳の風呂なしのアパートに住んで共稼ぎで何とか生活出来るという状態であった。

たまに飲む50円ぐらいのカップコーヒーが、なんとも贅沢であったという記憶は未だにぬぐいされない。

そういう生活を若い時にしてきた昭和の人間から見ると、今の若い人たちはやはり非常に恵まれていると思う。

「今時の若者は...」みたいな話は、年寄りくさくて嫌だが、便利、安全、快適を当たり前のように享受して育った人間には、順境ばかりで逆境の経験が少ないから、メンタル面ではどうしても弱い。

自分の力で自分のリスクで生きるという根源的な力のようなものがスポイルされているから様々なプレッシャーへの耐性も低下している。

生命力の弱体化は危惧するところである。

ある年代の人たちは、生まれ育った環境そのものがワイルドだったから、普通に野性やバイタリティを自ずと身につけることが出来た。

今のように便利、安全が蔓延している時代には、たくましさや逆境への耐性等は後天的、意思的に備えなくてはならない。

昔は当り前だった省エネを敢えて強調しなければ、それも実現もできないわけだから、これらはこの時代、特有の不幸なのかもしれない。

また、ものがたくさんそろっている時代ということは、選択肢が多いということ。

しかし、人間は選択肢が多ければ多いほど、自分が行った選択に後悔が生じやすい。

たくさんの可能性からひとつを選ぶよりも、少ない可能性からひとつを選ぶ方が、後で「あっちにすればよかった」といった後悔はしにくい。

例えば、就職でも、結婚でも、或いは食事でも、メニューが多いと人は迷うのである。

迷ってハンバーグ定食を頼んだら、隣の人のエビフライが美味しく見えたりする。

人間はそのようにできているように思う。

メニューが一つか二つしかなければ迷いもしないし、後悔もしない。

たくさんのメニューの中から何を食べるか選べばいいだけで、別の言い方をすると簡単に選ぶことは出来るが、自分で作るという喜びはない。

自分の糧は自分で稼ぐ。

それは生きるための最低条件となってくるはず。

日本の自殺者は3万人といわているが、その一方で、アフリカでは飢餓や感染症で毎日数万人単位の人が亡くなるという。

然しながら、自殺者はほとんどいないという。

生きること、食べるのに必死な時は、「人間は生きる意味」なんて考えることもない。

パンが足りた時、初めて「パンのみにて生きるにあらず」と哲学的な問いを発するわけであろう。

日本はパンが足りたことで必死に生きていく、自分で餌をとるという生きる力を衰弱させてしまった。

生まれた時からエアコンの効いた部屋にいるから汗腺が減って、体温調節がままならない子供が増えている。

また、背筋力が弱くて赤ちゃんを抱けない母親も多いと聞く。

また、企業組織においても、余暇が必要であるという意味でワークライフバランスなるものにも大方、賛同ではあるが、然しながら、それは、一人一人に与えられた組織人として責務を十二分に果たしていることが大前提であろう。

それが、中途半端にしか仕事がやれていないサラリーマンの「駆け込み寺」になっているのは危惧されるところである。

自己責任の意識が弱い我々は、どうしても個人的な目標意識を強く持つことが出来ず、何となく周りに流されてしまう。

そして、その結果生じる不都合を決して自責と捉えることなく、上司や組織、或いは環境等にその要因をもっていくという他責の文化となっている。

人の能力や姿勢、或いは人間性等のほとんどのものは、どのような環境で育ってきたか、いかなる状況で仕事をしてきたか等に大きく規定されることは間違いない。

現在では、企業組織として後天的に、意思的に勝てる人間を育てるための環境を作る必要があるのではないだろうか。

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