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人と組織.15 - 成熟化社会における成長とは!

衆議院解散で総選挙が決定したことにより、「成長と分配」という言葉が多用されているが、総選挙が近づくと、与野党ともに我々、有権者の歓心をかう道具を使いたがる。

矢野財務次官が、文芸春秋11月号に寄稿した「このままでは、国家財政は破綻する」という記事が永田町で騒ぎになっている。

その大意は、「与野党ともに財政バラマキに興じているが、日本人の多くは、それを歓迎するほど愚かではない。放置すると、このままでは、日本の財政は破綻する。」というものである。

「経済政策が分配に偏れば、全体の成長力が失われ、その国の持続可能性は低下する」という「パイを同じ大きさに切ろうとすれば、パイ全体が縮小してしまう」と米国ジョンソン政権で経済諮問委員会の委員長を務めたAMオーカン教授の有名な話と相通じるものがある。

新首相の所信表明演説でも、分配の対象については、子育て世代への給付金支援や賃上げ企業の税制優遇等、分配重視の姿勢を示す内容となっていた。

然しながら、企業に賃上げを促すために、賃上げに踏み切る企業に税制支援を強化すると表明しているものの、企業に賃上げを強制できるわけではなく、企業の稼ぐ力が高まらない限り、賃上げは容易ではないだろう。

一方で成長については、この国の為政者として、どの様な道筋でこの国を成長させていこうとしているのか、正直、我々には、全く見えてこない。

本来、必要なことは、経済成長に資する行動をとりやすくする環境づくり、生産性の向上や投資を促したり、付加価値の高い産業へのシフトを促したりする施策であろうし、
日本の経済成長を阻む規制の撤廃等の「改革」が重要と思われるが、その点についての言及は、一切なかった。

結果として、成長という二文字が躍っているだけのようにしか感じられない。


今から10年ほど前に出版された五木寛之さんの「下山の思想」にとても共感したことを思い出す。

成長しない経済の時代、人口減少の時代、少子高齢化の時代、未だかつて誰もが経験したことの無い未曾有の変化の時代に突入しつつある今、この時代の成長の定義をどのように考えるべきなのだろうか。

五木さんの見解は、まさに本質を指摘していると思う。


高度成長期から、延々と追求してきたいわゆる、「大量生産、大量販売、大量消費」といった経済システム、そして前年対比に代表される「常に前年よりも伸びることが是とされてきた成長のパラダイム」。

規模を追求するパラダイムでは、売上や利益の指標レベルを指摘した、分析チックな話は、多いものの、現場感覚がなく、どこの企業の経営をしているのか甚だ疑問が残る。

効率性を追求するシステム、規模の拡大により成長を目指すという方策は、必然的に生産性を追求しなければならない。

その結果、あらゆる仕事で分業化、マニュアル化、画一化、標準化が進展していく。

然しながら、その反面で、働いている人たちの自己判断力や自己決定力を喪失させ、仕事に対する喜びややりがいを失わせているのが常態化しているようにも思える。

働いている人たちの目から輝きが消え、停滞感や閉塞感を招いているのが、実情ではないだろうか。

この成熟化社会における成長とは一体何なのか。

国も企業も、成長を量や前年比に求める価値観から脱却し、「我が国ならでは」「我が社らしい」成長の構図を模索していくべきでないだろうか。

そうでなければ、国民も組織で働く人たちも心から決して幸福であるという実感が得られないように思えてならない。

かなり前から我々は、それに気づいていながらも、気づかないふりをしてきただけなのかもしれない。

量の拡大に執着するのは、成長の落とし穴と思えるし、これは成長ではなく、単に膨張しているだけといえる。

本当に、真剣に考えなければならない時期が、今、到来したということであろう。

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