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人生万事塞翁が馬−9

余生というのには長すぎる高年期の時間

政府やマスコミによると日本人は、今や「人生百年時代」だそうである。

厚生労働省が2018年に公表した統計では、2018年の平均寿命は、男性が81歳、女性が87歳となっている。

これが、戦前は、男女共に、40代、戦後の1947年でも50歳代であったことを考えると確かに、日本人は、随分長生きするようになった。

長生きするということは、言葉をかえれば、老いていくということでもあるが、老いるというのはどういうことなのだろうか?

仏教に「生老病死」という基本概念があるが、人は老いて病にかかりやがて死を迎える。

「老」と「病」と「死」は、互いに強く関連付けられた切り離せないものであろう。

そのためにも老いてからの心身の変化の実相を知ることは、充実した後半期の人生を送るために有益なことのように思えるのだが。

下記に挙げたのは、シニア世代に共通する4つの不安といわれるものだそうである。

①時間消費の不安

②身体的不安

③経済的不安

④孤独、介護の不安

自分に置き換えてみてもそのすべてがこれからの私にあてはまるものである。

会社生活を終えてからの後の時間が長寿化している現在、その長さは、もはやとても「余生」とはいえないものになっている。

その長い時間を、何を生きがいに、どのように生きていくのかという正解のない課題に行き着いてしまうというのが多くの人の実態であろう。

また、高年期に入った多く人たちが直面するといわれている課題に「孤独」があるといわれている。

孤独には、人間、誰しもが直面する、親しい人との永遠の別れにより生じる、失ったことでの喪失感による孤独、或いは、仕事を辞めて一個人に戻った時、所属するコミュニティや親しく交わる仲間や友人が存在しない時等の孤独等などは、高年期の人たちに共通するものであろう。

一方で、孤独な高年期の人たちと対極にあるのは、「元気で活動的な高年者」であろう。

例えば、平日の昼間のフィットネスクラブの高年者、スポーツや趣味に元気に取り組み、活発な交友関係を維持し、孫に取り囲まれ幸せな生活を営んでいるかのごとき人達。

また、SNSにおいても同じことが言えるような気がする。

日常生活における、ちょっといい話題、ファッション、ペット、料理等、小さな幸せ感が漂うようなメッセージがそこには、あふれているように思える。

そこにあるのは、いずれも「他人に見てもらうために演出された自分」のように思えるのは考えすぎだろうか?

そして、他の同年代の人たちは「毎日楽しそうであるが、それに比べて今の自分は、何と寂しいことか」とそのギャップに愕然としたりもする。

人間は、他人からの見られ方を非常に意識する動物である。

然しながら、フィットネスクラブで汗を流した時点では、心は満たされ老いや孤独への不安が消えるものの、翌日になるとまた不安になる。

理想的な高年期の人物像を追い求めつつ、一方では、今の自分の孤独な現状に怯える。

ここに大きなギャップが存在するように思えてならない。

超高齢化社会において明確なことは、世の中のマジョリティから切り離され、孤独感を抱く寄る辺ない人たちを大量に生み出しているという現実ではないだろうか?

これも現在の政権が唱える「自助」で解決しうるのだろうか。


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