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人生万事塞翁が馬−8
「喪失という現実」をどのように受け容れるか
私の場合は、突如として大きな喪失に直面したので、ショック状態に陥り、喪失という現実を受け止めきれず、自分に起こっていることがぴんとこない状態がかなりの期間続いていた。
失ったものが大きければ大きいほど、その現実を受け入れるのに時間を要する。
起こってしまった現実は変えることができないものの、その現実を自分の中に受け容れることは極めて辛い作業であり、決して簡単にはいかない。
「何故、自分だけが生き残って、妻が死んでしまったのか」という問いを繰り返したりする。
それは、愚問でしかない。それでもついその愚問を繰り返してしまうし、問うても仕方がないことを問うてしまうのである。
そうしていると一方で「不甲斐ない」と自分が情けなくなってしまう。
「何時までも悲しんでばかりではいけない」「落ち込んでばかりではいけない」と自らに言い聞かせて自分の感情に蓋をして無理にそれを抑え込もうとしたりするのである。
そのためか、知り合いから「少し元気になりましたね?」等と言われたりするが、要は、周囲の人に見せている顔と1人の時の顔が違うのである。
また、妻を失った後、その妻に対して自分が「したこと」「しなかったこと」への後悔があり、つい自分を責めて辛い日々を送ってしまう。
どんなに後悔しても過去にさかのぼって変えられないことは自分でもよくわかっているのだが、後悔せずにはいられないのである。
後悔とは、過去の行為を解釈することである。
自らの意図的或いは非意図的行為に対して激しく後悔している場合、起こってしまったことをあたかも事前に予測することができ、自分が他の選択ができたかのように思ってしまうのである。
日々の生活や人生は、選択の繰り返しである。
自分や相手にとって良かれと思った選択が悪い結果になってしまうこともよくある。
望ましい結果を常に予測し、後悔しない選択や行動をとり続けることなど出来ない。
社会心理学者である、相川允さんは、著書の中で、自らの喪失体験を「妻を亡くした後、あきらめることを学ぶことによって気持ちに変化が生じ、新たな希望も芽生えた」と。
「あきらめることは人生そのものを捨てることではなく、自分にできること、できないことを区別して、できないことをやめること或いは、人間の力ではどうしょうもないことがあるという事実を認めて、過去や将来について思い煩わず、目の前のことに全力を傾けることである」と。
相川さんの言を引用させて頂くと「諦めるといことは、人生に対して卑屈になることではなく、思い通りにならない現実を認めつつ、その上で主体的に生きるということなのかもしれない」と思ったりもするのだが。
聖路加病院の日野原先生曰く。
「今、あなたは悲しみの真っ只中にいて、もう自分は、一生笑うこともないと思っているかもしれない。
でも我々人間には、時間はかかっても必ず悲しみを乗り越える力が備わっている。
綺麗な花を見たり、素晴らしい音楽を聴いたり、友達と心が通じ合えたり、そんな癒しの
恵みを味合うことで生きていて良かったと思える瞬間がかならずやってくる。
その時を信じて待つのである。
そう考えていると、「失うことを通して自らに与えられたものもいつか見えてくるかもしれないな」と思えたりもするが、未だ行ったり、来たりの自分である。
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