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人生万事塞翁が馬−4

死に際して考えること

私の妹の夫が倒れて救急車で搬送され緊急入院したとの連絡があった。 

昨今、コロナウィルスの件で規模の大きな総合病院は簡単には入院出来ないようであるが、4つ目ぐらいの病院でようやく入院できたとのこと。

私も義弟の見舞いにと思ったが、コロナウィルスの一件があって現在は簡単に見舞いもできないようで面会謝絶とのことであった。

症状はかなり重いようで義弟が彼の一人息子に対し「自分に何かあったら妻である妹のことを宜しく頼む」と話したそうである。

また、入院して間もない夜、彼が妻である妹にLineで「これまで一緒にいてくれたことへの感謝の言葉と先行きの人生を楽しんで生きてほしい」といった内容のメッセージをおくってきたとのこと。

これに対して妻である妹も「感謝の言葉」を返信したとの連絡が私にあった。

そこから私はいろいろなことを考えさせられた。

死という状況に直面したとき、人間は一体何を考えるのかということ。

自分の命がこの世からもうすぐ消えるという状況に直面した時に、人間は、一体何を考えるだろうか?

妹夫婦のようにお互いに感謝の気持ちを伝え合う。

そこには、これまでの長い時間の中であったであろうささいな仲違いから生じる感情面のもつれ等は一切消えてしまうのではないだろうか。

出会ってから数十年という時間を共にし、その間にたくさんの喜怒哀楽を経てここに至ったという安心感は、他のものではとても代替できないように思われる。

お互いの長所、短所も十分共有化できていることは、相手の前で自らのすべてをさらけ出せるという何物にもまして楽な存在であり、リラックスできる居心地のよさも提供してくれる。

然しながら、死という避けられない事態に遭遇し、二度と会えない、やり直しが出来ないという状態を自覚すると、人間、プライドや勝ち負け等ではなく、自らに正直に素直になれるのではないだろうか。

病の重い義弟には不謹慎になるかもしれないが、私には、妹夫婦がとても羨ましく思えてならない。

私の場合、ハワイ島での交通事故が起こった際、私自身が脳の出血で昏睡状態に陥っていたため、事故の際、一体、妻がどのような状態だったのか、苦しみの状態や負傷の状況等全くわからず、そのまま逝かせてしまったことは、悔やんでも悔やみきれないものがある。

せめて負傷している彼女を癒すとか、これまでのお礼を伝えるとかといったことが全く出来なかったことへの無念さ、そして申し訳なさが未だに頭から離れない。

もうひとつは、事故の少し前、車内の後部座席でシートベルトもせず居眠りしていた私に隣の席の妻が「あなたシートベルトしてくださいよ」と数回にわたって注意してくれた声が未だに私の耳に残って消えない。

妻の古くからの友人曰く、「シートベルトしていた妻が亡くなって、シートベルトをしていなかった私が脳と左足は負傷したものの、生きながらえたということは、妻が私の身代わりとなって助けてくれたんですよ。この先彼女の分まで生きないと」と語ってくれた。

妻の友人の指摘は、科学的には、なんの論拠もない話しではあるものの、私には妻の人となりや家族に対する思いなどからして、心のどこかで「そうかもしれないなあ」と思える自分がいるのである。

科学は、人間が生活を上で行っている膨大な経験の領域を、合理的なものだけに絞って観察や実験の方法を取り上げ、これを計量という一点に集中させている。

然しながら、人間の精神の動きの微妙さは、とても計量計算に委ねる事はできない。

妻の死を契機として「人間が死に際して何を考えるか」或いは「死後は一体、どこにいくのだろうか」等といった、以前の私であれば全く正面から向き合うひともなかったであろう、いわゆる死生学に類するような領域を最近は、深く学んでみたいと思うようになってきている。


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