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人生万事塞翁が馬-3

生きるとは何だろうか

昔、高校時代に 「生きるとは何なのか」「人は何のために生きているのか」等といった「答えのないこと」を考えていた時期があった。

いってみれば「そんなことを考えて何になる」というレベルの悩みである。

昨今、新型コロナウィルスの問題での外出自粛要請で必然的に自宅にいる時間が増えたこともあり、ここに来て今また再び「生きるとは何か」といった答えのないことを考え始めたりしている。

然しながら、「生きるとは何か」というテ-マは同じであっても若い時に、漠然と考えていたそれと、シニアと呼ばれる年齢になってのそれとは、その中身が決定的に異なる。

若いときのそれは、将来の夢や希望等明るい未来に溢れた「生きるとは」であったが、それがシニアになると死が現実のこととしてそこからは逃れられない。

従って、死を前提にした「生きるとは」ということになってくる。

それは、一つは年齢からくるものであろう。

生きるということと死は裏表であるということ。

漠としながらも死というものを考えた結果として「生きるとは何か」ということにつながっていくのである。

若いときのそれは、死ということは、はるか先のことで死というものを本気になって意識することすらなくそのために「生きる」ということをただ「未来のテーマ」として考えていたのであろう。

いつか、宮本信子さんが、TVの対談番組の中で語っていたこと。

彼女は、伊丹十三氏が大好きで、夫でもあり、監督でもあり、人生のいろいろな面での先生だったそうである。

だから伊丹十三さんが亡くなった時に、寂しさ、悲しみ、そして凄い喪失感が長きにわたって続いたそうである。

しかし、ある時、前に向かないと私は、ダメになると思える瞬間が来たそうである。

その時、彼女は、「この寂しさ、悲しさ、寂寞感は、冷凍庫に仕舞おう!」と決めたとのこと。

そこから自分は、「前に向くようになった」と話されていた。

今は、伊丹十三記念館の館長でもあり、故人を忍びながらも明るく生きておられるご様子が、今の私には、とてもまぶしくそして羨ましくもあった。


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