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人生万事塞翁が馬ー13

あるがままに生きる

長年、勤めた組織をリタイアすると多くの人は集団から自由になれる。

一方でそれは、集団との同調や集団の規範から抜け出すことになり、自由ではあるものの、その自由さの中で、どのような生き方をすべきかという答えを自ら見つけ出さなければならないということでもある。

子供が成長し巣立ち、リタイアする或いは家庭での役割を終えた人は、一方である種の不安な個人になってしまうという宿命があるように思えてならない。

今の高年者は、「家の中に閉じこもりがちな高年者と見られたくない」、「いつも元気ではつらつと積極的に活動している高年者」でいなければならないという心理的なプレッシャーを抱いているのかもしれない。

疎外感からくる孤独を回避するためには、やらされ感のない、自発的な活動といったものが必要となるだろうし、また、どこかで「自分は自分、人は人」という意識を持ち、他人と異なった自分を肯定しなければならない。

また、たくさんの友達がいれば、孤独感が解消されると思われがちであるが、それは大きな誤解のように思える。

周囲に何十人の友達がいようと孤独感から解放されることはない。

いくら友だちづきあいが多くても、それが表面的なものであればあるほどより深い孤独感に陥る。

心の中の琴線にふれる何かを共有できるという感覚、お互いに相手を理解できるという関係の間柄でないと疎外感かは解消されない。

自分という人間を認め、理解してくれる他人が一人でもいると、疎外感は大きく緩和されるのではないだろうか。

いずれにしても「自分が他人からどう見られているか」という意識があると、これが足枷になって、せっかくの自由な人生を楽しむことはできないのかもしれない。

我々は、本質的に、周囲との競争、比較、同調といったものが、ある意味で我々の内面を縛っているともいえる。

本来は、高年期の大方の人は、この種の縛りから逃げられるはずだし、高年期の自立する生き方として「周りの眼等気にしない。他人からどう見られてもいい」という気持ちが必要ではないだろうか。

どんな人にとっても実際に老いるまでは「老い」は、未知の領域である。

諸先輩の人たちと接していても、老いてみると、様々な発見があり、考えさせられることも多いように思われる。

考えてみると、人間は、生まれた直後から老いはじめ、その先の死に向かって歩んでいく。

それは、誰であろうと同じある。

社会的な地位や資産は、この普遍的心理に介入することはできない。

ただ、ひとつはっきりといえることは、人間は、最後の最後まで人間であることをやめないということなのかもしれない。

それは、寝たきりになっても、認知症を発症している人でも同じである。

そう考えると、個々の「生」はすべて尊厳に値し、美しいものといえるのではないだろうか。


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