見出し画像

人生万事塞翁が馬−2

別離

人が生きるという営みを繰り返す中で、別離ほど切なく苦しいものはないように思える。

別離が我々に与える哀しみは、言葉ではたとえようのない心の動揺を伴う。

それは何故、自分だけがこんな目に合うのかと思ってしまうからである。

そういうものと向き合っていると、やがて別離を経験した自分にしか見えないものが見えてくる。

例えば、長くつれそった相手が病魔や不幸に襲われ、突然の別れにみまわれる。

そうすると、突然の喪失という状況を、自分の中に容易に受け容れられず、日々、寂寥感の中で過ごさざるを得ない。

そうした悶々としている中で、順調だった時には、歯牙にもかけず、当たり前としていた、日常のごく平凡なことが、実は、生きていく上でとても大切なものであったということに気づかされたりするのである。

丈夫でいたり、災いがない時は、全くそれに気づかなかった、平凡な日常の重要さに。

そうすると、お金や出世や名誉等は、全く大したものでなかったことだと気づき始めたりする。

とても悲しいことではあるが、それに気づかずに人生を終えるよりも気づかされた方がいいのかしれない。

特に、私のように長く連れ添った妻に突然の事故により、先立たれた男の悲しみは、思ったよりも非常に深いものがある。

それは他人にはわかりえない。

それでも生ある限り、踏ん張って生きていくしかないのであろう。

人生で遭遇する様々な悲しみ。

その時に、何故、自分ばかりがと後ろばかり向かずに、それを前向きに捉えてみることも大事なのかもしれない。

これは何の為に自分に与えられた悲しみなのかと、考えることが大事なのではなかろうか。

そうしていると、順調だった時には、わからなかった本当に大切なものに気づかされたりもする。

そう考えると、妻の死というのは、生き残った私のためにあるのかもしれないと思えたりもする。

事故の車で、妻の隣に座っていた私が、偶然にも「生き残った」というのは、もしかしたら「生き残された」ということであろう。

「お前はもっと懺悔しろ」、「もっと世の中のためになれ」という「私への試練」として残されたのかもしれない。

妻の死は、これからの私を見守るためのものであってほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?