2024/8/11

生きている感覚、というのは聴覚や味覚などの普通の感覚のように研ぎ澄ますことが難しいように思える。人が生きていると思う瞬間は人それぞれであり、逆にまるで生きていないような感覚を持つ瞬間も同じなのかもしれないからだろうか。

眠っているとき、僕自身は生きているのをやめているように思える。自分自身の意思よりも、身体が眠たいから寝ようと言っていることに従っているような、受動的な感覚。これを生きているから行うものであって、最も生を感じる瞬間だと捉える人もいて。やっぱり区々の感覚なんです、と言い切っていいのだろう。
そんな僕自身、昨日はなんとなく徹夜した。ゲームをしてたらいつの間にか夜明けを迎えていた。何故だか生きているという心地がした。単純にゲームが楽しかったからなのか、それ以外の理由があるのか。まあわからない、わかったらこんな文章は書かないし、簡単にわかってしまうことは何となく面白みに欠けるからしょうがない。

活動する瞬間を想像してみる。歌うとき、汽車に揺られ街へ出るとき、おいしいものを食べているとき… 逆に静かにいる瞬間を想像してみる。夜の真っ暗な空を見ているとき、ただなんとなく動画を観るとき、天井を見上げるとき… 生きている感覚を見出すときにどこを大事にしているかは結局人次第だけど、どこを大事にするかで人の価値観も見えてくる。自分自身らしさを作ることは、過ぎ行く日常の中で自分が生きていることを感じているか、なのかもしれない。難しい…

ところで、こんな歪な話をするのもよくわからないから、少し話題を変えてみよう。
自分の一番好きなことを挙げることは中々に難しい。多趣味な人も無趣味な人も、なんとなく一つを選ぶことに苦戦するようなイメージがある。
僕たちは何かと比べてしまうから、たくさんのものごとに対してできるだけ詳しくメリットやデメリットを挙げたがる。結局それで選ばれたものごとというのは、自分が一番いいものであって、そのものごとに触れている瞬間は生きていると感じる瞬間である、と考える(本当かどうかは知らない。僕の所感でしかないので。)。人が持つ考え方もそうかもね。
あ、そうそう。昨日何かしらの宗教勧誘(詳しく言うのは勿論ご法度)が来てた。あの人たちが勧誘の際にかける言葉というのは、自分が生きているという感覚を得たものについて他人に勧めようとしているから、悪意はなかったりするのかも。僕たちからすると変な話と一蹴するけれど。

答えがないことに対して考えることは難しく、そして興味深い。
関係のない話をして終わる。一度、無人島に一つだけ物を持っていくとしたら何がいいかに対して1LDKと答えたことがある。だからなんだ。


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