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THINK TWICE : 20200412-0418
4月12日(日) BUZZ BUZZ BUZZ
バズった。
例の最悪な動画を目覚めに見てしまった直後、何気なく呟いたひと言が、あれよあれよという間に拡散されていった。
そして、24時間後にはいいねもリツイートも思ってもみない大きな数になっていた。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/22862363/picture_pc_fe42338d0832e835b0e12f9c8ce29a74.png?width=1200)
アクティビティを確認したところ、1日で約128万人がぼくの呟きを見ている。日本国民の100人に1人が見たという計算になる。
まあ、これは十分に凄い数だと思うし、それくらいあの動画に腹を立てた人が多かったという証拠だろう(ちなみに4月18日のエンゲージメント総数は約145万人)。
そして、約22,000のいいねが付き、リツイートが1万ちょっと。7,200人がぼくのプロフィールまで辿り着いている。
しかし、これをきっかけでフォローしてくれた人は……たった3人!
つまり、総閲覧数を100として、いいね率が約1.7%、リツイート率は約0.7%、フォローをしてくれたのは約0.002%ということになる。
これがバズりの本質である。
もちろん、新たにフォローしてくれた3人の中の1人が、ぼくのツイートをきっかけに世界を変えてくれる可能性はある。
だから決して悲観すべきではない。
そもそもTwitterは、2006年から2013年4月までアカウントを持っていたのだが、いろいろ思うところあって一度削除した。
で、つい1週間ほど前に、このnote(今、あなたに読んでいただいているこれです)の宣伝になれば……と再開したばかりだった。
だから、正直、Twitterのフォロワー数がどうしたこうしたなど問題じゃないと思っていた。肝心なのはこちら(note)のリアクションである。
で、noteのフォロワーの増加数は……2名。
そのうちの1人は古くからの友人だったので、ツイートがバズった効果かどうかは怪しい(言うまでもなく、これを機会にフォローしてくださった方には感謝の気持ちしかない)。
結局のところ、Twitterでたまたま一度バズったくらいじゃ、そこまでこっちの希望どおりの結果にはならないし、電通から映画化の話を持ちかけられたりはしない。
でも、これだけ多くの人のあいだを反響していく可能性があるのだから、声を上げるのはとても大事ということでもある。
これもまたぼくの経験した「バズ」の本質である。
4月13日(月) タモリさんと美しさについて語ろう。
![スクリーンショット 2020-04-12 21.59.59](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/22862557/picture_pc_7db19ce98bdf6f88993a505b0b834d94.png?width=1200)
土曜日に放送された『ブラタモリ』を録画で。
今回から6代目アシスタントの浅野里香アナが登場。
バラエティのロケはアスリートと同じで、反射神経が大事。
知らない人も多いかもしれないけれど、一応、ぼくも約20年前、テレビ番組の司会をしていたので、実体験として書いている。
今、言っていいのかな、いや、待ったほうがいいのか、なんて頭の中で考えるより、なんでもいいから言葉が先に出るタイプの人がこの分野では圧倒的に強い。
歴代のアシスタントで言えば、桑子さんがわりとそういうタイプだったけど、浅野さんのほうが潜在能力は高そうだ。
タモさんも74歳のおじいちゃんだから、浅野さんのような屈託のない孫タイプのキャラクターを相手にするほうがごきげんに見える。その点、5代目の林田さんは彼女の個性と番組の個性が最後までいまひとつ噛み合わなくて、かわいそうな役回りだった。
さっそく及第点を叩き出した浅野アナにとって、なんとも残念なのはこれから当分『ブラタモリ』のロケが難しいということだろう。
今年8月で75歳になるタモさんが、この先、どれくらい長く番組を続けるかわからない。あまり考えたくないが、浅野アナの任期中に番組がピリオドを打つ可能性だって無くはない。
事情が事情なので、日本がダメなら海外ロケで……というわけにいかないのもつらいところだ。
ところで、番組を見ていて、ふと気がついたことがある(タモさんの番組には気づきが多い)。今回は法隆寺を取り上げ、飛鳥様式の仏閣の建築的な美、造形的な美という側面をたっぷり紹介していた。
しかし、タモさんは専門家の解説をひととおり聞いたあとでも、それを「美しい」という言葉では褒めなかった。おもしろいね、いいね、見事だね、とは言ったけれど、けっして美しいとは言わなかった。
記憶をたどってみても、タモさんが美しいという表現で何かを褒めていたことってほとんど無いように思う。
そのかわり「きれいだね」という言葉はよく使う。
「美しい」と「きれい」は同じようでいて含んでいるニュアンスはけっこう違う。
まず、きれいというのは表面的でとても即物的な言葉だ。
たとえば、髪の毛や肌などを褒めるときには、きれいという言葉を基本的に使っていると思う。
でも、容姿だけでなく、その人の存在全部を褒める場合はきれいではなく、美しいという。表面的な要素だけでなく人格などの内面的な部分が含まれているからだ。(例「あの人はハゲてるけど、心は美しい」とか)
人格や内面的な部分は精神性と言いかえてもいい。
だから「来たときよりも美しく」なんて標語が生まれる。
単に「来たときよりもきれいに」だと、見えるところだけをさっと整えただけ、という感じがする。これが「美しく」になると「人の目につかないような細部まで、心を込めてきれいにするべきだ」というさらに強い要求を感じる。
〈きれい+べき、イコール美しい〉という公式。
この「べき」というのがとても厄介なのだ。
くしくも「べき」問題について、タモさんがこんなことを言っている。
タモリ オレが、いちばん困るのは、若い人に何かひとこといってくれとかいうやつね。
糸井 成人式に向けて、とか。
タモリ 青年はどうあるべきかなんていわれても、どうあるべきでやってきたワケじゃないからね。ただの運だから。
糸井 この世界、運しかない。
タモリ 運しかないやつがしたり顔で何やかやいうのが不思議でしょうがない。
糸井 『キミは竹村健一になれるか』なんて本があるけど、キミになれるワケないですよ。竹村健一はすごいんですよ、運が!
タモリ 竹村健一は、トイレで歯を磨きながら新聞読んで、時間を3倍に使うったって……、バカだよ、そんなのまねするの。
糸井 時間が貯金できるならやるけどね。
タモリ 時間を節約して働きすぎて会社が潰れたりね。
(対談集『話せばわかるか』より)
タモさんの話し相手の〈糸井〉というのは、先日、ぼくと違って、とても悪い意味でバズった糸井重里さんである。
つまり、タモさんは若さもきれいも結局のところ運なんだ、と言っているわけだ。
たまたまその時代に生きている若いやつが若者と呼ばれる。
たまたま整った容姿で生まれてしまった人が、たまたまスカウトかなにかに見つかって、俳優やモデルになる。
たまたま丘のてっぺんに大きな桜が立っていることによって観光スポットになる。
きれいは誰かに発見されたあと、プロの俳優ならもっと目を大きくするべきだ、とか、観光地として人をたくさん呼びたいなら遊歩道を整備すべきだとか言い出す人が現れる。そして「べき」にいくばくかの資本が投下されて、お金を産む美しさに変貌する。
特に木造や石造りの建築物(仏像なども)は、時間の経過とともに鄙びていき、人の手を感じなくなる。
法隆寺のような歴史的建築ともなれば、コンクリートや鉄骨で作られた建造物などと比べれば、もはや自然の一部のようにさえ見える。
しかしそれだって、飛鳥時代の人々によって「きれい+作為(べき)=美しい」という公式で生み出されている。切りだした木(きれいな自然)を、職人たちが加工(べき)し、建築物(美しい)に変えたのだから。
そこにあるのは、まぎれもなく作為であり意味である。
タモさんは作為や意味というものを鼻から笑い飛ばす。
2005年、ほぼ日主催のイベントで糸井さん、そして山下洋輔さんと公開対談した中でこんな発言があった。
タモリ ぼくが音楽を好きだというのは、意味がないから好きなんですね。糸井 意味がきらいだと(笑)。
タモリ うん、意味の世界はきらいなんです。
糸井 だけど、意味がきらいだっていうのは、意味の世界の向こう側にしかないから。つまりそれは、あとで発生することですよね?
タモリ そうですね。
山下 きっとタモリさんは、早い段階から、意味の世界を知りつくしたんですね。
タモリ 知りつくしてはいないんですけどイヤです。いまだにそうです。イヤなんです、意味が。小学校の3年生ぐらいのころのことを、いまでも思い出すんだけど、教室で誰かの書いた文章を読んでいて、先生が「さて、この作者は何を言いたかったんでしょうか?」と聞いたんです。
え? 言いたいことはすべてここに書いてあるじゃない……そういう質問は、今でも、不思議に思うんです。
我々の世代が、なんか言わなきゃいけないと感じているのは、教育からもきているのかもしれない。作者は、別にそれほど言いたいとは思っていないかもしれないし。たとえば、ただ、おもしろいものを書きたいだけで。
山下 (笑)そうだね。
糸井 つまりさ、姑が嫁に対して、「まあ、薄味がお好きなのね?」というのは、その意味は、探るべきだと思うんです。
タモリ そうそう。その意味はね。
山下 深い意味だよ。
糸井 でも、そんなことをおたがいにやりあってもほんとうは、しょうがないですもんね。
タモリ ずっと疑問だったんです。それからだんだん意味がきらいになってきた。
(タモリ☓山下洋輔☓糸井重里 / ほぼ日「はじめてのJAZZ。」)
このタモさんの問いかけには、日本語というハイコンテクストな言語が持つ潜在的な問題が含まれている。
つまり、タモリ少年は先生の質問に対して「作者がここに書いていること以上の深い意味は無い」と考えた。つまりローコンテクスト的に読解したわけだ。
日本語はとりわけハイコンテクストな性質を持つ言語である。
ハイコンテクストとは言葉そのものよりも、文脈から相手の気持を読み取る/察する/空気を読むことを高いレベルで要求される言語および、そういう言語環境のもとで成立した文化のことだ。
エドワード・T・ホールという文化人類学者が1976年に出版した『Beyond Culture(邦題:文化を超えて)』の中で提唱した概念である。
ハイコンテクストな言語で行われる会話の例を挙げてみよう。
ドラッグストアに行って「マスク残ってますか?」と尋ねたとする。
在庫があった場合、店員がマスクの箱をやおらカウンターの下から取り出して、何も聞かずにレジを打ち、そのまま袋詰めしてあなたに差し出しても、「ぶっきらぼうだな」とは感じても、そこまで不思議なことには思わないだろう。
その店員は「今、なかなか手に入らないマスクの在庫を聞いてきた客なら、在庫があれば確実に購入するだろう」というふうに、あなたの質問の文脈から先回りして行動に移したわけだ。
これがローコンテクストな会話だとこうなる。
「マスク残ってますか?」
「ありますよ」
「だったら欲しいんですけど」
「何箱必要ですか?」
「1箱でいいです」
「わかりました、2千円です」
「わあ、高いなあ……でも、買います」
「ありがとうございます」
……という感じ。
ローコンテクストの言語でコミュニケーションするとき、あなたの意志はすべて発した言葉でのみ伝えられていく。
察して、とか、空気読んで、といった曖昧さは排除される。
すべてがイエス/ノーのようにはっきりと、ひとつひとつ契約的に会話が進んでいくのだ。
英語やドイツ語、フランス語など欧米圏は基本的にローコンテクスト文化に分類される。
日本では先ほどの例のように、在庫の有無を確認したら、そのままレジを打たれて買ってしまう───なんてケースは日常的によくある。しかし、これは日本語のようなハイコンテクストな言語圏の社会にしトラブルなのだ。
本来、音楽もローコンテクストだ。
そもそもビートやメロディに意味など存在しない。
でも、作曲者とか作詞家が「月の光」とか「悲壮」とか「ラヴ・イズ・オーヴァー」といったタイトルや歌詞を付けた瞬間、ハイコンテクストなものに変化してしまう。
では、ジャズはどうだろう?
ヨーロッパ発祥の芸術はすべからく宗教と結びつく。
たとえば、バッハの音楽は精緻な建築物のごとく構造からして美しい。バッハの母語であるドイツ語はローコンテクストの最極端とされている。
西洋音楽にアフリカの土着的なグルーヴや不協和音をかけ合わせることでジャズは誕生した。アフリカの言語は日本語同様にハイコンテクストだそうだ。
つまり、ヨーロッパ音楽とアフリカ音楽のハイブリッドであるジャズはハイコンテクスト/ローコンテクスト両方の文化を合わせ持っているからこそ、つねに揺らいで(スウィング)いるのだ。
タモさんはハイコンテクストを否定し、ハイコンテクストの世界で無自覚に生きている人をコケにする。一時期、サインを頼まれた時、「人間にとっていちばん大切なものは、人生である」と書いていたそうだ。貰った人は「なるほど、そうだ」と膝を打ったり、「うーん、深い」なんて感心したはずだ。しかしどこをどう読んでもこの言葉に中身なんかない。
タモさんの好きな地質や地理も完璧にローコンテクストである。
意味や価値を持たない自然な石に意味をつける───という話は、先週の火曜日にも書いた。
もっと調べると、同じハイコンテクストな性質を持つ日本語と中国語を比較すると、日本語のほうがローコンテクスト寄りであるらしい。
このあたりは研究の途中なので、またいずれ詳しく書く。
はあ、疲れた。
4月14日(火) 書店と古書店
昨日、東京都や大阪府などが緊急事態宣言を受けて打ち出した休業要請。
対象施設の詳細が発表された。
ぼくが住んでいる愛媛県に、まだ直接関係あるわけではないけれど、東京や大阪と同じような状況になれば、いずれ同じような要請が出るだろうし、その前例として、こういった自治体が決めたケースを下敷きにする可能性は高い。
やはり驚いたのは、新刊書店と古書店に対する対応の違いだ。
新刊書店には〈学ばなくてはいけない学習書などが置いてある〉ので休業要請の対象外とされ、古書店は〈たまたま読みたいものを探す〉ので要請の対象となったそうだ。
今のところ1,000平方メートル以上の───という付帯条件が付けられてはいるので、これに当てはまりそうな古書店はブックオフやまんだらけくらいか。
でも今後その範囲がさらに広げられるかもしれないし、なにより線引きの根拠となった理由が気に触って仕方がない。
おそらくこれを決めた役人たちには、日曜の昼下がり、ブックオフでマンガを立ち読みしているような人の姿しか思い浮かんでいない(あれはあれでどうかと思うけど……)。
古書店に行かなければ手に入らない種類の知識があり、ぼくらのような仕事をしている人間にとっては、すぐに必要なものだ。古書店が開いてなければ、研究職、大学生なども困るだろう。
大型の図書館にも休業要請は出されているので、そうなれば万事休すだ。
フリーランスの人間に対する金銭的な補償はこの先どうなるかわからない。補償が出るからといって、与えられている締め切りを先延ばしできるわけではないし、原稿のクオリティを落とすようなことがあったら元も子もない。
結局のところ、文化は贅沢品で、不要不急のものではない……と日本人は見做している。いつまで経ってもこの価値観が蔓延っている。
*ごぞんじのように16日から対象が全国に広がった。
4月15日(水) 死んだら死ぬな。死ぬなら死ぬな。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/23059951/picture_pc_6343df7fec982755354de0c7621cbd25.jpg?width=1200)
土曜に出演するラジオ番組のレギュラーコーナーで何を取り上げるか、午前中いっぱい考える。
もともとジム・ジャームッシュの新作映画『デッド・ドント・ダイ』を紹介するつもりだったが、公開延期が決まってしまったので、先延ばしするしかなくなったのだ。
毎月決まったタイミング(第3週)で、そのときぼくにとって旬な話題、他人に話せるだけのネタを選び出す作業が巡ってくるのは定点観測的なので、すっと決まるか悩むかで、メンタルのコンディションがとてもよくわかる。
でも、いざ本番になると事前にしっかり準備ができたものより、苦労して絞り出したテーマのほうが、話しながらその場でどんどん考えをまとめるのでライブ感が出る。結果的にそのほうが面白くなったりする。
基本的に毎日がテレワークのぼくだから、行動パターンをほとんど変えずに、いわゆる〈三密〉を避けて暮らせているのだが、それでもやはりカフェでたまたま出くわした友人と情報交換するとか、飲みに行ったりしないと、どうしても感情のどこかが「詰まる」。
いったん気持ちが詰まってしまうと、自分の力だけではなかなかすっきりしない。テーマ選びに悩んでしまうような時はやはり調子が良いとはいえない。この1ヶ月、気持ちがどこか高ぶり、どこか麻痺し、以前よりもだいぶ鈍っている気がする。
そういうときは、Spotify、Bandcamp、Soundcloud、YouTubeを巡回して───ある意味、ランニングやストレッチをするように、心揺らしてくれるような新しい音楽との出会いは欠かしていない。
この作業はたぶんぼくの生命線である。
そんなこんなで、今回絞り出したテーマは“Not Known But Goodies”。
お気に入りの新譜の中から、とりわけ他の番組じゃ絶対流れてなさそうな曲、特に無名バンド/アーティストの曲に絞って、4曲紹介することに決めた。
さっそく午後、選曲した音源を放送用にリマスタリングし、ディレクターにWAVデータを送信。
それにしても。
『デッド・ドント・ダイ(死者は死なない)』が延期になったのはつくづく残念だ。とっくに死んでるはずなのに、自分が死んでることに気づいてない連中が、いつまでものさばって、生きてるものを苦しめている。まさに今、見るべき映画なのに……って言いたいことわかりますよね?
4月16日(木) 村上春樹流に書くと"コーニッツ"
リー・コーニッツの古い十インチ盤をターンテーブルに載せ、机に向かって文章を書いていると、時間は僕のまわりを心地よく穏やかに過ぎ去っていった。まるでぴったりとサイズの合ったひとがたに自分を埋め込んだような心持ちだった。長い時間をかけて丁寧に作り上げられたとくべつな親密さのようなものが、そこには感じられた。部屋のあらゆる隅々に、壁の小さなくぼみや、カーテンのひだにまで、音楽の響きが居心地良くしみ込んでいるのだ。(村上春樹『レキシントンの幽霊』)
15日、アルトサックス奏者のリー・コニッツがCOVID-19による合併症の肺炎で亡くなった。
リー・コニッツの古い10インチなんて貴重なアルバムは、残念ながら持ってないけれど、ぼくが唯一アナログで所有している『Inside Hi-Fi』もそこそこ高かったように記憶がある。
買ったのはたしか、渋谷の桜丘にあったパーフェクト・サークルだった。
1995年とか6年くらいだったと思う。値札で6,800円だったのを、バーゲンまでしばらく粘って20%オフくらいで手に入れたはずだ。
リー・コニッツのアルトサックスの音が大好きだ。
散歩の途中、まわりに誰もいない時、こっそり出したオナラの音のような軽やかさがある(いい意味です)。
だからどれだけ真剣に聴きこんでも眉間に皺が寄ることはない。
こういうザワザワする日々の中で聴くととてもホッとする音なのだ。
享年92歳。
4月16日(木) 7,000種類
政府の場当たり的な対応や無神経な閣僚たちのことばで、心理的な二次災害のようなことが起きている。
耳あたりのいいことだけ言ってくれ……とは思わない。
でもこんな非常時に、人の心を慰めるのではなく、逆撫でするような言動やふるまいばかりが繰り返されるのはいったいどういうことだろう?
言語と社会の関係性について考えている。
TED.comにアップされているスタンフォード大学で心理学を研究しているレラ・ボロディツキーの「言語はいかに我々の考えを形作るのか」という講演がある。
地球上には7,000種類以上の言語が存在している。人間はたったひとつのこの宇宙を、7,000種類の言語によって認知しているのだ。その豊かさや多様性をレラは語っている。
彼女は講演の最後にこんな問いかけを観衆に投げかける。
みなさんにぜひ考えてほしいことを最後に言いますね。違う言語を使っている人々が、いかに違った考え方をするか……ということをここまでお話してきました。しかしながら、これは他人がどう考えているかということではなく、みなさんがどう考えているか、ということなのです。みなさんが使っている言語がいかにみなさんの考え方の形成に影響を与えているのか……それを考えてほしいのです。
「なぜ自分はこんな考え方をするのか?」
「どうすれば違った考え方ができるだろう?」
「どんな考えを 生み出したいと思っているか?」
こんなにふうに自問する機会を持ってみてください
同じ言葉を母語として使っている者同士なのに、あの人やあの人を支えている人たちとどうしてこんなにも考え方が違ってしまうのだろう?
少なくとも彼らは、レラの投げかけた問いについて深く考えることは絶対にないだろうな。
4月17日(金) 芸術家の想像力をなめるなよ
『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』のためにディズニーデラックスに入会し直したので、ついでに『アベンジャーズ:エンドゲーム』を再見。
最終決戦で、ピンチに陥ったスパイダーマンを救うべく、キャプテン・マーベルほか女性陣が一挙集結するシーンでいつもなぜかグッときて、うっすら涙が出るのはなぜだ?
それはさておき、3回目の『エンドゲーム』(劇場で2回+配信)を観ながら、こんなことをぼんやり考えていた。
最適の解答を見いだせないような未知のトラブルに陥った時───たとえば、今回のCOVID-19なら根治的な治療法やワクチン開発は、公衆衛生やウィルス感染を研究している科学者や医学者などにがんばってもらって、事態の収拾にあたってもらうしかない。しかし、そうしたプロの見解でさえ、刻々変わっていく事態の中で完全に一致することはないようだ。
一方で、大友克洋『AKIRA』やジョージ・オーウェル『1984』、レイ・ブラッドベリの『華氏451』のように、現代社会を正しく予見するような作品が何十年も前に作られていたりする。
しかし、これは超能力でも単なる偶然の産物でもない。
もともと優れた芸術家の想像力というのはそういうものなのだ。
未来や、あるいは逆に、なんの記録も残っていないような過去の出来事を、正確に見通すことが彼らにはできるのだ。
こうした見通しの利かない状況になったとき、小説家、漫画家、画家、映画監督、脚本家、音楽家といったアーティストたちを集めて、彼らのイマジネーションとナラティヴの力で、この先にどういう事態が起きそうかという予測をしたり、人の心を打つメッセージを発信していくような、新しい形の防災というのはできないものだろうか。
防災、防疫、医学などのテクニカルな側面ではA.I.などの助けも借りるのもいいかもしれない。
でも、人間の心の動きによって不確定的に動く経済や社会活動などの問題は芸術家たちの意見を取り入れたほうがいい。そして、それぞれの専門家たちがアベンジャーズのようにチームを組んで、社会を守るようなシステムがあったらいいのに。
4月18日(土) NOT KNOWN, BUT GOODIES
毎月第3土曜日の午前10時からレギュラー出演している「Smile mix」。
緊急事態宣言も出たことだし、ひょっとして #stayhome で電話出演かな? なんて思ってたんだけど、結局いつもどおりスタジオから生放送。
Smile mix | RNB南海放送
2020/04/18/土 10:00-11:10
http://radiko.jp/share/?sid=RNB&t=20200418100000
テーマは予定通り “Not Known, But Goodies”。
今年出た新譜から、日本ではそれほどまだ有名ではない/もしくは完全に無名なアーティストばかりをピックアップして紹介した。
以下、トーク部分のために用意した資料を再構成したテクスト。
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1 - Poolside feat. Amo Amo / Around The Sun
フィリップ・ニコリッチとジェフリー・パラダイスがロサンゼルスで結成したPoolside。
2012年『Pacific Standard Time』というデビューアルバムをリリースしました。
古き良きディスコサウンド的ないなたさ、フュージョン的なスムーズさを併せ持った、まさにプールサイドで聞きたくなるようなアルバムで、ぼくもいまだに愛聴してます。
最近、フィリップが脱退し、ジェフリーのソロユニットになったんですが、そのリスタート後、最初のアルバムとして今年2月『ロウ・シーズン(閑散期)』というアルバムを出しました。
この「Around The Sun」はその中からの1曲です。
フィーチャリングされてるAmo Amoも、ロサンゼルスで活動するサイケデリックっぽいロックバンドです。
彼らもTwitterのフォロワー255人という状態なのでまったくの無名ですが、こちらも昨年リリースのアルバムをたまたま聴いて、「Antidote」という曲を去年選んだベストソングの中にも入れました。
でも、まったく無名……と言いつつ、Spotifyでは200万回再生だったりして、どこでどう人気をはかるか……ということが今はめちゃくちゃ難しい時代です。
2 - Yumi Zouma / Magazine Bay
ニュージーランドのクライストチャーチ出身の4人組バンド。何度かメンバーチェンジがあって、現在は男性2人、女性2人という構成です。
ファーストシングルを出した時は、Yumi Zoumaさんという女性ソロアーティストかと思い込んでいて、あとからバンドだと聞いて驚きました。
フジロックを含めて何度も日本でライブをやっているので、今日紹介するアーティストの中では比較的知名度があるかもしれません。
2011年2月。東日本大震災直前にクライストチャーチで発生した大地震のあと、母国を離れてパリとニューヨークに引っ越したメンバーがいるため、今でもネットを介してデータをやりとりしながら音楽を作っているという、いかにも今っぽいグループです。
では、最新アルバム『Truth or Consequences』から「Magazine Bay」を聴いていただきましょう───。
3 - Bische / Dicipline
Bische(ビシェ)は2012年にパリで結成された、こちらは男性ばかりの4人組バンド。
昨年秋にファースト・アルバム『 La Nuit Des Perséides(ラ・ヌイ・デ・ペルシーズ=ペルセウス座流星群の夜)』をリリースし、間髪入れずに今年2月に発表された最新シングルです。
タイトルの”Dicipline”は規律/しつけ/懲罰といった意味です。 歌詞はよくわからないのですが、なにかに痛めつけられている人の歌かもしれませんね(笑)。
4 - Alex Siegel / Digital Love
最後はカリフォルニア州サンタモニカで活動している男性シンガーソングライター、アレックス・シーゲルによるダフト・パンクのカバー。 2年ほど前からSpotifyやApple Musicなどでポツポツと楽曲を発表しているんですが、CDやレコードなどのフィジカルリリースもしてないし、これ以上のことはまったくわかりませんでした。
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最初の曲からうしろに向かって、どんどん無名になっていくというマニアックな趣向だったんですが、いかがだったでしょうか?
おそらくどの曲も日本のラジオでかかったのは初じゃないかと思います。
来月の内容はもうすでに考えてることがあるんですが、まだなんの根回しもしてないので、追々お知らせしますね。
では、来月もセイムタイム、セイムチャンネルで……ごきげんよう、さようなら。
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