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THINK TWICE 20201206-1212

12月6日(日) 身近な人々

長年の友人が新型コロナウィルスに罹患し、約10日間の入院生活を経て、完治したことをさっき知りました。

永田くんの文章を読んで、まっさきに思い出したのは、伊丹万作が終戦の翌年に書いたこの随筆でした。

少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。(伊丹万作「戦争責任者の問題」)

ぼくの『A.M.』やTMVGの作品を制作してくれたTransonic Recordsを畳んで、新しいレーベル(ExT Recordings)を彼が立ち上げてからは、たまにライヴ会場や飲みの席で顔を合わすくらいだったので、クラスターが発生したクラブがどういう場所で、《感染原因の責任のなすり付け合い》で壊れてしまった人間関係の登場人物が誰か(おおよその察しはつけど)も具体的にはよく知りません。

しかしながら、永田くんと彼の家族が今後も無事で、また予後がこのまま順調であることを祈るばかりです。そして、いつの日か彼が再開する新しいパーティに遊びに行けたらいいなあ、と思っています。


12月7日(月) 見えないものにどう対峙すべきか


目に見えないものをどう捉え、どう対峙すべきか───コロナ禍以前からいろんな角度で考え続けていますが、一筋縄じゃいかないというか、とても難しい問題ですね。

いったん建てれば、半永久的にとどまり続ける駅前広場の彫刻と違って、道徳とか倫理とか公正さはひとりでに動きまわり、揺らぎ、伸び縮みし、ひとときも同じ場所に止まってはくれないからです。

自分が信じているものの正しさを証明するため、数値や統計を持ち出したり、あるいは発信者がいかに権威があるかということを論拠にすることもある。しかし、意見が真反対の人間同士が同じデータをもとにして、まったく反対の主張をしているところもよく見かけます。同じ微生物が同じ食物に対して、条件の違いでいっぽうは腐り、いっぽうで発酵するのとよく似ています。

また、たとえば本屋でこんな光景に以前、出くわしました。痛風について書かれた書籍が棚に並んでいて、1冊は顔を痛みで歪めた男性のイラストと共に《プリン体がいかに痛風によくないかを徹底解説!》と煽り文句が表紙になっている本。もう1冊はキンキンに冷えたビールジョッキの写真があしらわれて《痛風でもビールが飲める!》と楽観的なコピーがついていました。よく見ると、その2冊はどちらも同じ医者が書いた本だったんですけどね。

要するに、同じ映像素材に悲しい音楽が付けば悲しく見え、楽しい音楽が付けばコメディに見える。発信者のスタンス如何でいくらでも見せ方は恣意的にコントロールできるのです。結局、送り手も受け手も訴えたいように訴えるし、見たいように見るし、感じたいように感じているにすぎません。

先日、マスクの効能について、スーパーコンピューター「富嶽」に計算させた、理化学研究所の学者がインタビューの最後にこう答えていました。

「息のしづらいものは性能が高いと、覚えておいてもらえばいい」と。

これにはちょっと笑いましたね。そのうち《理化学研究所推奨 ウィルスの侵入から100%あなたを守る、呼吸を完全に止めるマスク》がドラッグストアに並ぶ日が来るかもしれません。

それは冗談として、防疫と経済をどう両立させるか、つまり、ぼくらがどこまで息を止めて暮らすべきか───という設問の答えはひとつではありません。しかし、人間は究極の答えがどこかにあると信じていて、それを求めようとする。そしてそれぞれの立ち位置から好き勝手言う。誰も経験のない非常事態ではなおさらのことでしょう。

ぼくも夏前くらいまでは、外出のとき、マスクを付けたり付けなかったり───たぶん割合的には半々くらいで過ごしていました。現在はウィルスの飛散がマスクによってどれくらい防げるかという問題はいっさい抜きにして、どこへ行くにも自然と付けているし、忘れたら近くのコンビニやドラッグストアに飛び込んで買うようにしています。今日からこうしよう、と決意したわけではなく、マスクの着用に関するコレクトネスがごく自然にぼくのなかで変化しただけです。

この点について、ぼくはこんなふうにとらえています───まず、ものすごい猛暑のなか、銀座の大通りを歩いているところを想像してみる。自分が着ているのはタンクトップにショートパンツにビーサン。あたりはまるで巨大なオーブンレンジの中を歩いているような、最低限の衣服さえも着ていたくないくらいの灼熱です。でもどれだけ耐え難い暑さのなかでも、服を全部脱ぎ捨てて全裸になろうとは思わない。それはなぜだろう? 公衆の場で局部を出すことが法に触れるから? 自分の局部のサイズに自信がないから?(わりとあります) それともほかの理由からでしょうか?

マスクの問題だけでなく、ぼくのなかのあらゆるコレクトネスはこれからもあちこちに動きまわるはずです。以前《ネガティブ・ケイパビリティ》という考え方について紹介したことがありますが、回答が簡単に導き出されないことを認め、結論をあえて留保する力がこんな状況下ではとても大事です。

でも、答えが見えてくるまでの《待ち時間》がいくら続くのはわからないし、その途方も無い空白の時間をがまんするのは誰にとっても難しいでしょう。ただ、好むと好まざるとにかかわらず、その変化を自分自身のビートやメロディとしてキャッチし、それにあわせて踊るように生きたいな、と思うのです。


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