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三島を放(ほお)った昨日の感性

しばらく三島の『金閣寺』を読んでいたのだけど、昨日はふらっと青空文庫にあった三宅花圃の「藪の鶯」を読んだ。この小説の成功を見た樋口一葉が小説で貧しい家計を支えることを思い立ったというもので、「藪の鶯」なくして一葉なしという。内容は当時はやっていた坪内逍遥の『当世書生気質』を模したもので、江戸戯作調の抜けない立身出世譚、かつ結構雑なところも散見されるのだけれど、このころはまだ、文学に声が残っていたと見える。近代文学は遠近法の消失点に作者を置いて、なるべく透明な語りを目指したというけれど、明治20年代のこの時期、既にリアリズム文学理論が出ていながら言葉がその枠を勝手に食い破って奔放に飛び跳ねてしまう状況は当時の受け止めはどうあれ、今見るとなかなかに心躍るものだったと思うのです。前田愛は1970年代以降の文学を取り巻く状況が、江戸化政期に類似しているといったけれど(『文学テクスト入門』)、それから半世紀後を生きる私にとって花袋が退屈で魯文が楽しいのは結構おもしろい照応、音の連鎖に導かれて昨日のような文を書きつけるのも自分が現代の特質をはからずも体現してしまっているからかもしれない。そう考えると馬琴や春水が読みたくなるけれど、青空文庫には載ってないんだよなぁ。

一方で三島を放り出したのは三宅花圃が読みたかったからでなく、そのとき紙の本に耐えられなくなっていたから。紙の本は電子書籍と違ってモノとして手のうちにあるわけで、その存在感、紙の質感やインクのかすれ、借りた本だとページが変色してたりちょっと折れ曲がってたり、かと思えば読み進めるうち刻々と残りページの減っていくのが左手の感覚で分かってしまって、言語情報以外のさまざまなモノとしての訴えかけが眼交いに現れては消え現れては消えして話に集中できなくなってしまう、4、5ページも読まないうちに疲れてしまってベッドに倒れ込む、ということがたまにある。ひどいときには言語レヴェルでそれが起きます、たとえば「カーテンの隙間から朝日が部屋に差し込んで」という一節を見たらまずカーテン、カーテンは何色なのか、遮光の裏地は張ってあるのか厚みはどうか、でもってカーテンと言ったらうねっているがそのうねり具合は、のさまざまが定まらんうち「隙間」、ときてそれは何ミリか、そして「カーテンの隙間」がもつイメージがその推測におっかぶさる、カーテンは窓を遮っている、窓といったら『夏物語』のモチーフで、観覧車は扉と窓が一体であるような空間なのですそれが重要、さて窓の喚起する意味合いは何であったか、そしてその窓を露出させるカーテンの隙間、ううむと言ううち「朝日が」、ああ朝日! カーテンが部屋を閉ざす夜がいつしか明け、隙間から洩れる朝日が朝の到来をしずかに告げる、隙間は夜に潜在して何も言わんが、朝が来ればその訪れをいち早く部屋に伝え、部屋に残る夜を一掃する……待てよ窓は、窓ガラスは、どれくらいの透明度なのか、朝日は網戸越しなのかそうでないのか、という間に「部屋に」、部屋ってどんな部屋、間取りは、家具の配置は、掃除の具合は、そもそもアパートなのか、マンションかも知らんし一軒家の一室かも、そして「部屋」から立ち上る細胞の比喩、カーテンで閉ざされた細胞の、隙間はもしや傷口なのでは、に「差し込んで」の一語が差し込まれるに至っては個々の不確定要素放埓に立ち上る比喩イメージが紙の上に氾濫してしまっておのおの好き勝手に反響する増長する、で次の一節、次の一節、を重ねるうちに耐えられなくなって本をなかば投げ飛ばす、気付いたら一ページも読めていないのだったというのが重度の症状。

スマートフォンに青空文庫のビューワーをインストール(横文字多すぎるわ)したので試しに使ってみると、開く手間もいらんしさっと撫でるだけでページを繰れる、黒バックに白文字ならばそこまで目も疲れないので思いのほか快適で、戯作っぽい文体のリズムとともにすいすいと読めた、そのときなにとはなしに読んだのが「藪の鶯」だったのです。

スマートフォンにうつる文字の方が活字よりも読みやすく感じる、自分の感性は確実に現代的なのであり、それを「冒されている」ととるか「馴致している」ととるか、あるいはもっと積極的肯定的な解釈を付与するかというのは評論家連中に任せるとして、いまここに生きている私はこの感性この身体で(この感性この身体を)生きていくほかはないんであって、時代の代理人として堂々と好きなものは好き、嫌いなものは厭、と主張していきたい、その決意、というにはもうちょっと漠然とした、そしてもっと運命的ななにかを背中に感じつつ、今日は放り出した三島を読み進めました。

読み終わったら感想を書く、かも。

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