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【現代語訳】樋口一葉「やみ夜」(その二)

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 数日の飢えと疲れで綿のようになった身体を、今度は車輪に襲われて、痛みと驚きとに魂はいつしか身を離れて、しばらく気を失っていたあいだは夢を見ているようであったが、馥郁とした香りがどこからともなく流れてきて、胸のなかが涼しくなるとともに、物に覆われたようになった頭がそのとき初めて我にかえって、わずかに目を開いてあたりを見回すと、それに気がついたようで、薬を取ってくるから少し待っててという声が枕元に聞こえて、まだ魂が極楽をうろついているのか、どのみち人間の子とは思われない女菩薩がここにいらっしゃった。
 それにしても意地のないやつ、傷は小指の先を少しかすったくらいで、蜻蛉を追う子どもがちょっとした溝にはまってもこのくらいの怪我はよくあるというのに、気を失う馬鹿があるものか、しっかりして薬でも飲めと佐助がやかましく小言を言うのを、そう荒々しくいうものではない、どのみち病後かなにかで、ひどく疲れているみたいだから、静かに介抱してやりなさい。
 気を遣わなくちゃいけない家でもないのだから気を落ち着けてゆるゆるとお眠りなさい。数日いてもこっちはさしつかえもないけれど、うちに連絡したいと思うなら人を行かせて家族に迎えに来てもらってもよい。思いがけない災難は誰であってもあるものだから、恥ずかしいなどと思わないで思うままのわがままを言いなさい。ちょっと見たところ病み上がりかにも見えるけれど、こんな夜遅くまで家に帰らなかったら、両親が心配するだろうから、今夜はここに泊まることにして使いの者を家に向かわせよう。実際に見るよりあれこれ想像して心配する方がよっぽど苦しいだろう。別条のないことを知らせて、いろいろと想像が先走ってしまう苦しみをやわらげたい。
 住所はどこだと問われて、やっとのことで起き上がる男の頬はたいへん肉が落ちて、大きく見える目の光はどんよりと、鼻は低くないが鼻筋がとても窪んでいて、ただでさえ出っ張っている額がますます張り出して、生え際は薄く、延びた髪が襟を覆っている。物を言おうとするが涙だけがこぼれて、色もない唇がぶるぶると震えるのは感慨が胸に迫ったからであろうか。お蘭は静かに近くへ寄ってさあと薬をすすめると、手を振ってもう気分は大丈夫でございます。
 帰る家もなく、心配してくれる親もありませんので、車にひき殺されても、道に行き倒れても、わたし一人で天命だと諦めるほかありません。世間に可哀そうだと見る人もないでしょう。情け深い方々に嬉しい言葉をそそがれるのは、幸薄いわたしにかえって苦しみを増すことになりますから、気を失っていたあいだはともかくとして、今は御門の外にお捨てになってください。命があるうちはつらい目を見尽くして、死んだあとの屍体は痩せ犬の餌食になれば十分な身分です。恨めしい車の紋は沢瀉おもだか、闇であったけれどしっかりと見た面影の主に恨みは必ず返しますが、情けをかけてくれた方々に御恩返しできるわたしではありません。
 そういうわけでご免くださいと身を起こしても足もとが定まらず、よろよろとするので、それにしてもあぶない、道理のわからないやつだ、親がいないといってもその身体は誰から貰ったんだ、そう考えもなしに粗末にして済むものか、お前のような分からずやがいるから、世の中の親に心配事は絶えないのだと、自分も一人もった子に苦労してきた佐助が他人事とは思えず心配で𠮟りつけて座らせると、男はまたもや首をうなだれて俯く。(つづく)

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