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田中先生のこと①

田中先生は中学の三年間お世話になった塾の先生でした。当時で六十半ばの男性で、若い頃から塾の先生だったのか、定年退職後に塾を始められたのかは不明です。そこは馬淵教室みたいな大手ではなく田舎にたくさんあった寺小屋みたいな個人塾でした。塾の名前は田中塾といいました。本当の名前は田中とは違うのですがいちおう仮名にしておきます。

田中先生は京大の文学部を出ていたので、本当かどうか確かめようがありませんが「わが町最高の頭脳」と町民に呼ばれていました。だから子供をこの塾に通わせようとする親御さんはまあまあ多く、私も姉も三年間中学の友達と一緒に、一回二時間の授業を週に二回のペースで通っていました。

先生は国数理英社の五教科をすべて教えていました。市販の参考書や過去問題集の問題をコピーし、A3用紙に切り貼りしたものを教室(先生の自宅の部屋のふすまをとっぱらって広い教室にしていました)の隅にあったコピー機(このコピー機は高かったんや、と謎の自慢をしておられました。確かに大きくて高そうなコピー機でした)で人数分刷り、ホッチキスで留め、私たち生徒に配ります。今なら著作権違反と思うのですが約三十五年前、そんなみみっちことは誰も言わない大らかな時代でした。

教えるといっても先生が黒板に書きながら説明し生徒を当てるというのではなく、私たちはただひたすら問題を解く。一時間がすぎたら先生が一問目から答えを読み上げ、私たちがマルやバツを点けていく。それで終わり。先生と生徒とのやりとりはほとんどなく「先生から私たちへの一方通行」でした。わからない箇所は手を挙げると先生が来て解説してくれますが、そんな場面に遭遇したことはほぼありませんでした。

わからない箇所は問題を解く最中でも私たちで教え合っていたりしましたが、私たちがしゃべっていても別に怒られたりはしない。そんなふうにゆるく流れていくこの塾の時間が私は好きでした。中学二年の時、私は友人から借りた「燃えよ剣/司馬遼太郎」を読んで新選組にはまりました。塾の友達にも広めました。ある日解答が早く終わったので土方歳三がー、沖田総司がー、としゃべっていたら先生が寄ってきて、

「総司って名前は、やくざに多いんや」

と、ぽつんと言いました。全国の総司さん、お気を悪くされたらすみません。あくまで先生のデータです。こう言われてへっ?と、私は固まってしまいました。それまで先生と私たちが雑談をすることは全くなかったので、いきなりそんな話をされてどう返したらいいのかわからなかったのです。それで、ハ、ハァみたいな適当な返事をしてその場をやり過ごしてしまいました。

いま私はとても反省しています。あの時、どうしてもっと突っ込んだ返事をしてあげられなかったのかと。先生もきっと新選組が、司馬遼太郎がお好きだったのです。だから女子中学生たちが新選組の司馬遼の話をしているのにときめいて、自分も会話に参加したかったのに違いありません。まして先生は京大卒、新選組ゆかりの地をよくご存じなのです。

あの時どうして「新選組が芹沢鴨と平山五郎を暗殺した時についた八木邸の縁側の鴨居の刀創を先生はご覧になられたのですか!?」とか「芹沢鴨が暴挙を働いた際にできた島原角屋の刀創を先生はご覧になられたのですか!?」と、お伺いしなかったのでしょうか。コピー機は別として勉強以外のことは話さない先生がわざわざ言ってこられたのです、新選組がお好きに違いなかった先生はきっと学生時代に刀創をご覧になられ多くの隊士が眠る壬生寺にも詣でられたのに違いないのですから。

長くなるので②につづきます。