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COIN~コイン~1-2(承) 帰る場所

COIN~コイン~1-2(承) 帰る場所
著:増長 晃


 モールスの応急処置の後、鳩(コルン)の男たちは診療所へ運ばれることになった。モールスは散歩を続けようと思ったが、呼び止められた。
「助けてもらったのは本当にありがとう。だが、恥を忍んで君に頼みたい。精霊遣いの君にしか頼めないことだ」
 怪我人に同行していたもう一人の男が、片膝をついてモールスと視線を合わせて言った。
「失礼ですが、そういった話はこの子ではなく私を通すようにお願いいたします。この子はまだ危険度の判断ができない子供です」
 義姉のテーラがモールスの肩に置いた手に力を籠めた。男はテーラを一瞥し、視線をモールスに戻した。微かな動揺を必死に隠そうとする目だ。彼らが村に来た時の慌て様は、おそらくただの怪我ではない。それ以上の緊急事態があるということだ。
「遭難者を探してほしい。鳩(コルン)の仲間だ。無理にとは言わない。だがほんの些細なことでもいいから、手伝ってほしいんだ」
 そう言うと男は立ち上がり、足を怪我した男に肩を貸して、村の診療所へ向かった。
「モールスくん。危ないことはしちゃだめよ。お姉ちゃんとの約束」
 モールスは頷いた。
「待ってくれ…」
 怪我をした男が掠れ声で言った。先ほどより生気が増している。
「君に礼をしたい。渡したいものがあるんだ。時間があるときに、診療所まで来てくれ」
 男はそう言って、再び歩みを進めた。遭難者のことも気になるが、なにかもらえるとなれば、子供心がくすぐられる。
「もうお昼ね」
 テーラは空を見上げて言った。曇天の向こうに、巨大な光の塊が霞んで見えていた。
「僕お腹空いた」
「お姉ちゃんもお腹空いた。お姉ちゃん買い物して帰るから、モールスくんは先に帰っててね?」
 テーラが言うので、モールスは頷いた。別れ際にテーラはモールスの頭を撫で、市場の方へ行った。モールスはひとり、広場を散策した。
 テーラが視界から消えたのを確認し、診療所へ向かった。なんとなくテーラに対し後ろめたかったので、少しだけ速足になった。
 診療所は村の西側、つまり水辺にある。東にある門から一直線に進んだ所にある診療所には屋根も壁もある、この村では立派な建物だった。勝手にドアを開けて入ると、いきなり広い部屋に出て、ベッドとカーテンが数人分並んでいる。だが今は患者は一人だけのようだ。窓際のベッドに彼が居た。
 彼はモールスに気付くと、微笑んだ。
「ああ君か、来てくれたんだね」
 結晶団の装備は全て脱ぎ、代わりに白い寝巻を着てベッドに横たわっていた。目隠しを外したその目には疲労が浮かび、もう一つ、幼いモールスの知らぬ感情が潜んでいた。
 彼は上体を起こし、窓のある壁に背を着けた。
「熱はどう?」
「まだ少しあるが、さっき解熱剤をもらった。鎮痛剤はもういらない。君のおかげだ」
 すると男は、ベッドの脇にある鞄から、小さい袋を取り出した。中から鈍く光る何かを取り出し、モールスに渡した。
「お礼の品だよ。硬貨(コイン)だ」
 それは丸くて薄い金属の板だ。縁には線が帯を成すように彫られ、表面には何かの彫刻が彫られ、しかし汚れや錆でよく見えないが、表と裏で違うようだ。
「これは、何?」
「昔、コイン王国が健在だった頃に使われていた通貨だ。平民も貴族も皆平等に通貨で取引した」
「結晶みたいに?」
「そうだ。今でこそ結晶だが、国があった頃はその硬貨(コイン)であらゆるものが成立していた。皆これを使って生活していた」
「お義姉ちゃんも?」
「ああ、きっとそうだ。だが“大霊災”で国が滅び、通貨を製造できなくなった。だからその硬貨(コイン)は、俺たちの故郷の思い出なんだ」
「そんな大事なものをどうして?」
「さぁな。それを持っていると、どうしても昔を思い出すからかな。昔と今を比べたがる奴は、往々にして進歩に乏しい。それに君みたいな若い世代にこそ実感してほしかったんだ。かつてその小さい円盤を、星の数みたいに作って国の隅から隅まで染み込ませたでっかい国が実在していたってことを」
 モールスが返答に困っていると、彼はため息を吐いた。
「ああそうか。君の世代は“星”を見たことが無いのか。紫の雲がずっと空にあるもんなぁ」
 彼は小さく笑いながら言ったが、その声はどこか寂しそうだった。彼の思い出話に共感できなかったことが少し申し訳なく思えた。すると彼は、モールスの頭を撫でて言った。
「昔は昔、今は今だ。そういう生き方も悪くないのかもしれんが、やっぱり俺はこんな窮屈な暮らしを何とかしたい。昔は誰でも行きたいところに行って、住みたい場所に住んで、欲しいものを買った。でも今は窮屈だ。呪いと隣り合わせで生きている。正直、精霊を憎んだことがある」
 彼は静かに言った。
「でも君のおかげで、精霊は敵じゃないことを知った。君みたいな奴がたくさんいれば、この世界はもっと広くなる。コイン王国があった頃みたいに。だから君にそれを持っていて欲しいんだ。その硬貨(コイン)であらゆる物を取引する社会。人も世界も活発になり、生きたいように生きれる社会。そんな世界を、少なくとも君の代で取り戻したい。だから俺は結晶団に入った。そして今度は君のために、力を尽くそうと思う」
 聞いていて胸が熱くなるような話だった。この男の熱意は本物であると感じた。そんな男が精霊を信じてくれたのは、精霊遣いのモールスとしては嬉しかった。だから、モールスは尋ねた。
「遭難者について言ってたけど」
「ああ、俺たちは三人一組で狩りをしていたんだ。そのうち一人の仲間のことだよ」
 彼は遠くを見つめながら話した。その視線の先には苔むした木の壁があるだけだ。
「“呪受者”に襲われたんだ。足場が悪かったし、俺たちは大人だから、目隠しも濃かった。それで足を滑らせてこの有様だよ。あいつが俺を助けてくれて一緒に逃げたが、もう一人がいないことに気付いたのは、村に着いてからだ。それくらい慌ててたんだ。情けないよな」
 “呪受者”とは、精霊の呪いを受けた人間である。彼らは精霊に自我を奪われ、体中の霊素を凝縮され結晶化し、体中から霊素結晶が生えるおぞましい姿になる。コロニーの外で裸眼を晒すと、目から精霊が侵入し、呪われる。ただし空色の目を持つ精霊遣いは例外だ。
 そして精霊遣いは“呪受者”のことを“受霊者”と呼ぶ。
「あいつが今でも外の霊域を彷徨っているなら助けないと。あるいは呪われて狂ってしまったなら…開放してやらないと…」
 彼は語尾が弱まった。自分が足を痛めたせいでもう一人が自分を優先し、自分だけ助かった後ろめたさと、それでも結局仲間を助けられない無力感だ。幼いモールスはそれほど理解できなかったが、彼の背負う気の重さだけ感じ取った。
「場所は?」
 モールスは尋ねた。彼は申し訳なさと不安の目をモールスに向けるばかりで、何も言わない。テーラの言ったことを気にしているのだろう。モールスは貰ったばかりの硬貨を見せて言った。
「その遭難者も、これを持ってる?」
「あ、ああ。持っているはずだ」
「なら助けたら、その人からこれを一枚貰う。それでいい?」
 そういうと、彼は微かに笑みを浮かべた。胸の奥には微かな郷愁を帯びていたが、幼いモールスには分からなかった。懐かしき貨幣取引を、失われた故郷の思い出の一部を、些細ではあるが復活させたのだ。大切にしていた思い出が、他者に継承される瞬間でもあった。
「地図は持っているか?」
 モールスは頷く。地図を差し出すと、彼はある場所を指で指し、言った。
「たしかこの辺りまで順調に進んでいて…」

 診療所の帰り、モールスは広場に戻っていた。遭難者を助けたいということをテーラに伝えるべきかどうか悩んでいた。きっと義姉は反対する。モールスを守るためなのか、自分が安心したいからか、あるいは両方かもしれない。
 遭難者はきっと心細いだろう。自分だったら耐えられない。かといって同じ不安を義姉に抱かせるのも嫌だった。
 そんな時、咳が聞こえた。男の咳だ。
 咳の方を見ると、木の下に座り込む一人の中年の男が咳をしていた。霊気の淀みを感じる。体の気の流れに不調があるようだ。
 モールスは彼に近寄ると、男はこちらを見上げた。
「おや小さいお客さんだ。ゴホゴホッ。いやすまんが、また今度にしてもらえんか?咳がゴホッ、酷くてなぁ。喉の薬を貰おうにも金が無く、ゲホゲホッ、金を稼ごうにも喉が悪くてなぁ」
「うーん、違う気がする」
「ああそうだよなぁ、今は金じゃなくて結晶か」
「いや、喉じゃなくて、胸のあたりかな」
「うん?」
 男は怪訝な顔をしてこちらを見ると、驚いた顔をして言った。
「お前さん、もしかして、精霊遣いか?」
 モールスは頷いた。肺のあたりで霊力に不調があるのを感じる。肺が正しく機能していない。治すとしたら、【火】の精霊か。
「おじさん。精霊術で治していい?」
「え、治してもらえるのか?」
 モールスは頷いた。モールスは目を閉じ、“感じる”ことに集中した。
——ソリス。
 闇の中で呼びかけた。やがてソリスと名付けた烏の姿の精霊の気配を感じた。
 精霊は言葉を理解しない。だがこの精霊に名前を付けることで、精霊を想像しやすくすくなり、つまり認識しやすくなった。精霊に話しかけているわけではない。
 【火】の精霊はモールスの得意分野で、小さな精霊であれば剣を振らずに召喚できる。その代わり自分の魂を精霊世界に近づける必要がある。別世界と精神を繋げるべく、モールスは胡坐を組んだ。
 この時男は少年の謎の行動に戸惑いながらも咳をしていたが、モールスの集中力はそんな光景を排除した。
 自分の魂を粒子規模でほどき、しかし原型は維持する。そうして【火】の霊気を引き寄せる。ソリスの気配を掴み、魂を元に戻した。
 召喚に成功した。男には見えていないが、今モールスの右の肩に、烏の姿をした赤い精霊が留まっている。
 あまりにも危険な行為だ。なので通常は剣と指輪を触媒として用いるが、兄に教わったやり方の方がモールスにとっては扱いやすい。
 やがて右肩に留まった烏の精霊が羽ばたき、男に向けて風を送った。彼の胸に溜まった霊気の淀みを温め、解毒しているのだ。ソリスを通じて生命熱の揺らぎが伝わってくる。大きな波が訪れ、それが次第に治まっていく。
 目を開けると、ソリスはすでに消えていた。そこにあったのは、驚いた男の顔だった。
「こ、これが精霊術か!?いやぁ、初めての体験だ!」
「咳は?」
「おお、治ってるぜ!すごいなぁ!助かった!」
 男は声が戻るや否や、秘めた活気まで戻ったように喜んだ。男はひとつ咳ばらいをし、モールスに言った。
「改めて、俺の名はセミ。語り部だ」
「語り部?」
「ああ。物語をたくさん知っていて、語って聞かせるのが仕事だ。ああそうだ。俺の声を取り戻してくれた礼に、物語をひとつ、ただで聞かせてやろう」
 そう言ってセミは、木の桶をひっくり返し、太鼓に見立てた桶の底を叩いた。朗らかだったセミの顔が引き締まり、まとう空気が変わった。桶を叩く音でリズムを作り、モールスは気付かぬうちにその世界に引き込まれていた。


 ある男が国を興し、王となった。その王は金属を練り上げ、精霊と言葉を交わし、結晶を作った。
 その国は、滅んだ。精霊の呪いによって滅んだ。王は民を率いて西に逃げ、瓶の街を築いて閉じ籠った。
 かつて国だったそこは荒れ果て、呪いが彷徨い、しかし、わずかな生き残りが今も暮らしている。
 ある男が国を興し、王となった。その王は自らの名を国に与え、コイン王国と名付けた。


 セミは口を閉じ、音も止んでいた。いつもの村の生活音がモールスの意識を現実に引き戻した。
「今のは、コイン王国建国紀。——に、俺なりのアレンジを加えたものだ」
「コイン王国…」
「ああ、昔は国といって、人が沢山集まって街や村をたくさん作り、食べ物も服も音楽も、この村よりずっと豊かだった」
「これを、結晶団のおじさんに貰ったんだ」
 モールスはポケットに握りしめていた硬貨をセミに見せて言った。
「ほぉ、懐かしいもんだ!」
 セミはそう言って上を見ながら笑った。不自然な笑いだなと幼いモールスは感じたが、上を向いて笑った理由は分からなかった。
「おじさんは、コイン王国に戻りたい?」
「そうだなぁ。故郷だしなぁ。うまい飯や酒の店があるんだ。もうその味は戻って来んだろうが、忘れ難い思い出のひとつだよ。だがもう戻ってこないなら、いっそ忘れたいと思うこともある。しかしそうしたら、もういない俺の友や家族、芸人仲間との思い出も一緒に忘れてしまいそうでな…」
 今度は下を向いて小さく笑った。
「気付いたんだ。思い出ってのは思い出せる故郷があってこその宝物なんだろうなってな。コイン王国にはいい思い出がたくさんあった。でも俺以外はみんな思い出せなくなっちまった。みんなで分かち合った思い出を俺だけが独占するなんてな」
 おそらくこの男は“大霊災”の生き残りで、他の者は助からなかったのだろう。
「僕は、兄さんに会いたい。霊域のどこかにいるはずなんだ」
 モールスが語ると、セミの視線を感じた。
「義姉さんが傍にいてくれる。だから寂しくはないけど、義姉さんに抱きしめられるたびに、兄さんのことを忘れてしまいそうな気がする。でも兄さんを思い出すと、寂しくなる」
「そうか、辛いな」
「僕はおじさんと違って“故郷”が無い。最初から霊禍で、色んなコロニーを巡ってきた。ねぇ、故郷ってなんなの?」
 セミはモールスの空色の瞳を見つめた。空色の瞳に写る自分の姿は、まるで青空の下にある自分が写っているようだ。
「ふーむ。俺たちにとって故郷は、“帰りたいと思える場所”だ。だが君にとっては違うみたいだ。そうだなぁ“大切な人と一緒にいたい場所”ってのはどうだ?」
 不意に、胸に温かい風を感じた。
「君にとって兄貴と義姉貴は大切な人だろう。そいつらと一緒にいたい場所を“故郷”と呼べばいい。それこそ、コイン王みたいにな」
 コイン王。何もない場所に国を興し、その後の世に遥か大勢の故郷を築いた男。そうだ。コイン王には“故郷”が無かった。だから作ったのだ。彼にも大切な人がいたのだろうか。
 すると、東の門がなにやら騒がしくなった。見ると、鳩(コルン)の集団が十人ほど村に入ってきた。老人と子供だけで構成され、皆一様に目隠しをして、大きな箱を背負っている。
「おお、この村にも鳩(コルン)が来たか。あれを見ると安心する。足りない物資を運んできてくれるし、他のコロニーに必要なものをこの村から届けてくれる」
 安心する。モールスが野外からコロニーに戻り、テーラを見たときも同じ気持ちになる。
「俺は語り部だ。声を失ったらただのオヤジだが、君が俺に命を吹き込んでくれた。大げさじゃないさ。何も語れない俺は、思い出とその忘却にしがみ付くばかりだった。だが君が、生かしてくれた。語り部の名誉にかけて、俺の思い出も、数多くの物語も、決して忘れないと誓おう。そして精霊遣いの少年に救われた話を——そういえば名前を着ていなかった」
 すると、テーラの呼ぶ声がした。見ると、買い物を済ませたテーラが手を振っていた。
「僕の名はモールス。またいつか」
 そう言ってモールスは立ち上がり、テーラの方に歩み寄った。
 人は家に住み、それを故郷と呼ぶ。しかしモールスには家も故郷も無い。荒野で育ち、兄を探す旅を続けている。精霊のような生き方だ。そんなモールスには“懐かしい”とか“帰りたい”といった感情がうまく理解できなかった。
 その代わり、義姉に抱かれるのは心地よかった。きっと家に帰るとは、こういう感覚なのかもしれない。
 あの人も、家に帰りたいはずだ。モールスは遭難者を探そうと、ひそかに決意した。

「だめよ」
 村から借りている小屋にて、いつもの見回りに行こうとしたら、テーラに停められた。遭難者を探そうとしたのが見抜かれたのだろうか。
「義姉さん、ちょっと外に出て精霊の様子を見て来るだけだよ。もうすぐ夜になるから」
「あの人に聞いたわよ。受霊者に襲われたって。この近くに受霊者は出ない筈なのに襲われたってことは、外は危ないってことよ。大人しくしなさい」
「ならなおさら僕が言って解決しないと」
「それが危ないのよ。いい子だからお姉ちゃんの傍にいて」
「でも…」
 言いかけたが、モールスは諦めた。テーラはモールスを抱き寄せた。拍動が義姉の不安を物語っている。
「義姉さん、明日はどうするの?」
「そうね、ちょうど鳩(コルン)が来たし、そろそろ次のコロニーに行くのもいいかもしれないわね。モールスくんがもう少し残りたいならそうするけど、どうしたい?」
「うーん。明日考える」
「うん、そうね。今日は疲れたもんねゆっくり寝ましょうね」
 ベッドに行こうとした時、テーラはしゃがんでモールスを見上げて言った。
「ごめんね。早くお兄さんに会いたいよね。お姉ちゃん諦めないから、モールスくんは自分を大事にして」
 そう言い終わると二人はそれぞれの床に就き、結晶灯を消した。
 兄に会いたい。その気持ちはモールスもテーラも同じだった。偽りなど無く、疑いもなくそう確信できた。
夜眠ると一人になって余計なことを考えてしまう。そうなるくらいなら、別の何かをしていたかった。
——朝までには帰る。あるいは朝日が昇れば指輪を光らせる。
 そう書置きを残し、モールスは剣と指輪、そして青装束を着て密かに外に出た。
 雲の向こうは明るかった。おそらく満月なのだろう。精霊が活発な時期だ。村は寝静まっていた。ファスティス(コロニーの周囲を囲う魔よけの花)も眠っていた。東の門を出て、地図を見る。怪我をした男に教わった場所を目指すことにした。
 野外は相変わらず岩と砂の地平が広がり、時折木々や草地が生えるばかりである。狼や獅子は夜行性だ。だがモールスはソリスの霊気を借り、獣を祓っている。
 聞こえる音は自分の砂を踏む音だけで、冷たい風が音もなく吹いている。地図に示した地点に近づくと、背筋が凍った。そして“奴ら”が見えてきた。受霊者だ。
 精霊は目から呪う。眼球から体内に侵入し、体内の霊素を凝縮させ、霊素結晶を作る。その結晶は精霊の活動を活発にするだけでなく、より多くの精霊を体内に呼び込む。そうして多くの精霊にとり憑かれた——寄生されたという者もいるが、その言い方をモールスはあまり好きではない——者は自身の魂の原型を失い、肉体を精霊に奪われる。
「あ、あああ、うゔ」
 十年前の大霊災により、そうした受霊者が荒野を彷徨っている。わずかな生き残りを除き、コイン王国の国民全員がそうなった。
「うあああ、ああ、ぁぁぁ」
 受霊者は体中から霊素結晶を生やされ、筋肉や気道を損傷し動きも声も人間のものとは思えない惨いものだ。それでもある程度人の原型を感じるのだから、いっそう不気味だ。体中から結晶を生やし、血液すら乾き、十年の風化で服や髪を失った個体も多い。人でも亡霊でもない。その本質はおよそ精霊だが、由来と姿だけで人間と関連づけてしまう。それを不気味に感じるのは。自分が紛れもなく人間だからだ。
 そんな受霊者が目の前に三人いる。男か女かも分からないそれらは、皆呪いの初期症状である眼球の結晶化が見られる。見えないため、気配でこちらを探るのだ。
「あ、あああ!」
 いびつな叫び声を吐き出して彼らが襲ってきた。モールスの肉体を求めてのことだ。
 モールスはすぐさま抜刀し、心の中でソリスを念じた。二三度剣を振れば大きな音が夜の闇に響き、すぐさま赤い烏の精霊が呼応して虚空から姿を現し、近くにいる受霊者の一体に襲い掛かった。
 ソリスは体を矢のように飛ばし、受霊者の一体の体を貫いた。実体を持たないソリスは、水が網をすり抜けるように、結晶まみれの肉体をすり抜けた。その時ソリスの霊気をその肉体にぶつけ、受霊者は衝撃を受けたように倒れ込んだ。
 続いてモールスは剣を右から左に振り下ろし、その音を聞いたソリスは指示に従い、宙返りして高く舞い、剣と同じようにもう一体に同じ攻撃をした。もう一体も霊気による衝撃を受けて麻痺するように倒れた。
 次にモールスは左に構えた剣を右に水平に切った。ソリスは水平に飛んで三体目も倒した。
 最後だ。モールスは大ぶりに数回空を斬って剣を鳴らした。その響きがソリスを加熱し、より強く羽ばたいた。鈍く曇った月明りの下で踊る赤い光は、その眩しさでモールスを昂らせ、熱を帯びた剣舞はソリスをさらに加熱した。
 やがてソリスが熱しきったころ、モールスは息を大きく吸って剣を振り上げ、息を吐き出して剣を振り下ろした。
 それを聞いてソリスは大きく舞い上がり、赤く燃えて地面にその身を叩きつけ、赤い光を爆発させた。水瓶を床に落としたように高温の霊気を広範囲に放出し、受霊者たちを包み、確実に眠らせた。あの歪な呻き声ももう聞こえない。はずだった。
「ああううう、」
 振り返れば受霊者が迫っていた。五人、六人、数えている間に襲ってきた。モールスは息を使い切っていた。大きな剣舞は重ねてできるものではく、モールスは立っているだけでやっとだった。
「ソリス!」
 モールスは迫りくる窮地の力を足に込めて飛び下がりながら、剣を水平に斬った。ソリスは再び光の粒子から瞬時に像を結び、その姿を低空飛行させて受霊者たちの足を挫いた。全身を挫くことはできなかった。回復する時間が無い。尻もちを着いたモールスが息を整える間に奴らは這いつくばって迫ってくる。
 もう助からない。そう思った時、風が吹いた。そして全ての音が、斬られた。
 気付けば奴らの首が全て斬られ、皆地に伏せていた。
「無事か」
 男の声がした。後ろを見上げると見慣れない男がこちらに背を向けて立っていた。ぼさぼさの髪を後ろで一つに結び、草を編んだようなサンダルを履いている。
「貴方は?」
 モールスは尋ねると、彼はこちらを向いた。歳は四、五十あたりだろうか。肌は黄色く、目を粗い麻布で隠し、一枚の布を腹のあたりで結んだような服を着ている。左の腰には反った剣が納められている。この男が奴らを斬ったのだろうか。
「日ノ本(ヒノモト)の浪人だ」
「ロウニン?」
「お前は?」
「精霊遣いのモールス。えっと、おじさんの名前は?」
「夜桜(ヨザクラ)、夜桜村道(ムラミチ)」
「ヨザクラさん…」
 モールスは反芻すると、ヨザクラは手を差し伸べた。モールスはその手を取り、立ち上がった。
「ここで何をしておる」
「人探し。目隠しをした鳩(コルン)を見なかった?」
「わしは目が見えんのでな」
「あ、ごめんなさい」
 目を隠していたのは精霊を防ぐのではなく、盲目だからだったのか。道理で話していて視線が合わないわけだ。
「今宵は霊どもが騒がしいな」
「そうみたい。でもいつもはこんなんじゃないって」
「お主は、霊が見えるのか?」
「霊?精霊なら見えるよ」
「わしは肌で分かる。東の方が何やら騒がしい」
「本当?遭難者もそっちにいるかも。精霊は人体を見つけると活発になるんだ。行ってみなきゃ。そうだ。ヨザクラさんもついてきて。僕だけじゃ危ないから」
「その遭難者とやらは、お主の知人か?」
 相変わらずおかしな方向を向いているヨザクラが言った。
「いや、知らない人だけど」
「なぜ見ず知らずの人間のために危険を冒す」
「それは、その人が帰りたいところに帰れるように…」
「くだらん」
 一蹴された。虚空を見つめるその顔は鈍い月光で照らされ、刻まれた深いしわを目立たせた。
「ありきたりな善意じゃ。お主の意志ではないな」
「僕の意志だよ。じゃあヨザクラさんはなんで見ず知らずの僕を助けたの?」
「人を斬りたい気分じゃった。もう満足した」
 乾いた声でそう言った。
「嘘だ。それなら受霊者だけを斬って僕を避ける理由は?人を斬りたい気分なんて本心じゃないでしょ?」
「——ふん」
 ヨザクラは是とも非とも言わず、鼻で息をした。するとヨザクラの表情が強張り、南西の方を見た。
「何やらざわついておるな。向こうを探ってくる。行くなら一人でゆけ。ではな」
「え?」
 ヨザクラはモールスに背を向け、歩き出した。
「えっと、ありがとう。助けてくれて」
 モールスが言うと、ヨザクラは足を止めた。そして背中で応えた。
「…断る」
 なぜかモールスの謝意は拒否された。すると一陣の風が吹き、砂を舞わせて雲を流し、月を遮った。やがて厚い雲が流れ去って再び月光が戻る頃、暗くなった荒野は再び輪郭を得た。そこに浪人の姿は無かった。モールスの知らぬ花の香を残し、ヨザクラは消えた。

ヨザクラに仄めかされたままモールスは東を目指していた。徐々に無秩序な大地が平らになり、石でできた一本の線が伸びている。これが“道”か。人類の大なる発明のひとつである“都市”の主な構成要素だと、テーラに教わった。道は人や物を運び、都市を豊かにする。人体における血管だ。
丈夫な道は高度な文明の証だ。今モールスが歩いている道は、それを思わせる立派な石畳の広い道路だ。十年の風化を経てもなおその面影を残す文明の足跡。それを辿るにつれて、石の建物や像が現れてきた。文明の名残、コイン王国の辺境の遺跡だ。
モールスは胸が躍った。大人たちから伝え聞くしか分からなかったコイン王国の姿を、自分の五感で感じている。石で作られた建物の数々はまさに圧巻だった。中でも三階建ての巨大な丸い天井の建物は目を引いた。壁や屋根は所々穴が開いているが、見える範囲の建築物のなかで最も大きかった。
だが胸の高鳴りはすぐさま裏返った。嫌な気配を感じたのだ。うなじがざわつき、はらわたをなぞられる不快感が腹に溜まる。
恐る恐るモールスは、その建物に近づいた。すると靴のつま先に何かがが触れた。大きな木の看板のようだ。月明りに微かに見える文字は、“天体観測所”と書かれている。
天体観測とは、空を見上げて星を観察することだと、テーラから聞いたことがある。旧時代の学問だ。モールスは微かな不安を覚え、それがじわじわと冷たく胸の内に広がった。
星を観察する、つまり目を酷使する場所だ。精霊は目から侵入する。天文学が廃れたのは紫色の厚い雲のせいで空を見れなくなったからだけでなく、目をよく使うため呪いのリスクが高まり、天文学者が呪われていったからではないのか。
モールスは剣を振り、ソリスを呼び出した。赤い光が闇を照らした。ソリスを連れて建物に入る。中は瓦礫と本で散らばり、埃っぽかった。歩くたびに硬い何かに足が当たる。階段を上り、広い場所に出た。壁の古びた案内板にはホールと書かれている。ソリスが揺れ始めた。霊気の乱れが強まっているのを肌で感じる。禍々しい何かがいる。だが暗くてよく見えない。
すると雲が流れたのか、月明りが崩れた壁から差し込んだ。ホールの反対側の壁に誰かがいた。黒い布で目を隠し、青い服を着た男だ。ひどく衰弱しているようだが、もしかして彼が遭難者だろうか?目隠しを紛失して黒い布で代用したのだろう。それで身動きが取れず、ここに逃げ延びたのだ。
「もしもーし、大丈夫ですかー?助けに来ました!」
 モールスの声に反応した男はこちらに顔を向けた。目隠しで顔の半分が隠れていても分かる。怯えていた。
 遭難者と思しき男はこちらに顔を向けて口に指を当て、首を振った。まるで静かにしろと言わんばかりに——。
「ううう」
 刹那、全身の血が冷えるほどの寒気を感じた。モールスは足元を見た。先ほどから瓦礫だと思っていた物は、石ではなかった。
 大きな結晶だ。
 これほど大きな霊素結晶など見たことが無い。紫色の結晶の塊の内部に、赤い液体が混ざっている。この結晶は天然の結晶ではなく、その由来は——。
「おおお、うおうう」
 低い呻き声が腹の底に響く。途端に壁の一部が揺れた。いや、壁だと思っていたそれは、壁ではなかった。
 建物の一部と見紛うほど巨大な受霊者だった。
 石の壁を揺らしながらそれは立ち上がった、生身の肌などもはや見えず、結晶でできた巨人と呼ぶべき姿だった。精霊の呪いが進行するとこんな姿になるのか。しかし両手両足と頭部が揃って人の姿を保っているのは、もはや残酷に思えた。
 重すぎる巨体はもはや二本足で支えられず、赤子が這うようにこちらにゆっくり迫る。立ち上がればホールの高い天井に頭が着くほどの体躯だろうか。大人の背丈の二、三倍はありそうだ。
 結晶の巨人は尖った掌を振り上げ、モールスを目がけて叩きつけた。


COIN~コイン~1-3(転)  へ続く

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