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COIN~コイン~ 3-4 借りてきた心臓

COIN~コイン~ 3-4 借りてきた心臓
著:増長 晃

 リト計画、それは百代目コイン王によって立てられた計画だ。王は三つの学問を重んじた。錬金術、結晶術、そして精霊学だ。このいずれも欠けてはならないと知っていた。錬金術と結晶術は学べば身に着けることができる。しかし精霊術は才ある者、あるいは厳しい修練の末に身に着ける他に学ぶことができなかった。
 精霊学は自然を理解し、自然の恩恵を受け、自然からの災いを避けるために必須だった。精霊とはすなわち自然に宿る生命の法則である。水脈を探したり、天候を予言したり、怪我や病を癒す。建国以来ずっと、精霊は王国を支えてきた。しかし同時に、長年克服できない分野でもあった。
 そしてコイン王は、聡くて愚かだった。
 その全てを網羅しようとしたのだ。自然の恩恵も、結晶の神秘も、物体の法則も、すべてを網羅すれば王国は栄えると信じた。どんな人間でも精霊の恩恵に与(あずか)れる方法を探し、一つの答えに辿り着いた。
——精霊を人に近づける必要はない。人が精霊に近づけばいいのだ。
 王はおのれの精液を用いて、それに血と数種類の薬草(ファスティスも含む)を加えてもう一人の自分を創った。錬金術の禁忌であるホムンクルスだ。ゆえにこの計画は秘匿されていた。
 創られた検体は人為的に俗世から隔離し、最低限の人間性を保って育てた。それは獣に近く、極めて自然動物的な人間に出来上がった。基本原理は食事と睡眠。さらに王宮仕えの精霊遣いにより生まれた時から精霊に触れさせ、その子供は物心つく頃には精霊と触れあっていた。
 精霊遣いたちと精霊を介して会話し、やがて精霊と人間の両方の世界に属するようになった。精霊の恩恵を受け、同時に精霊の災いを抑止する。そのために人間的なあらゆる営みを制限したため、その子供はリト(古代コイン語で“抑止”)と呼ばれた。
 リトは自ら話さず、世話係と会話をしなければ目も合わせない。人の人たるを知らぬ無垢、もはや人ではなかった。まるで人ではなく、精霊のようだと精霊遣いが言ったとき、王は喜んだ。人と精霊の調和が成り立ったと。ましてそれは自分の化身なのだ。自分の片方は人の世の頂点たる王、もう片方は精霊を支配する懸け橋となった。やがて精霊の世界を人の力で開拓し、精霊の王となるだろう。王は更なる野心を燃やした。
 それを危険視した精霊遣いたちは、ある噂を流した。
——精霊の恩恵を驕った者により、王国は滅ぶ。
 精霊遣いなりの警句であった。だが王は聞く耳を持たなかった。自分の功績が彼らの憂いすら覆し、それ以上の繁栄をもたらすだろうと信じて疑わなかった。
 やがて十年の時が経ちリトは自ら一言も喋らないまま、成長した。髪は黒く目は青い。精霊遣いの特徴で、精霊術に秀でていた。食べて寝て、精霊に触れる。それをくり返すだけで、音楽も演劇も知らぬまま日々を過ごした。運動とストレス発散のため、庭を含む研究所の敷地内を自由に散歩することを王は許していた。リトは自力で極秘研究所から出ることは無いし、外から部外者が来ることは無い。
 だがその日は違った。奇跡的な誤算が生じたのだ。
 テーラと出会ったのだ。


 モールスは地下室の鉄扉を開けた。中は暗くて肌寒く、モールスの体の芯を余計にすり減らした。体の中心の、最も大きな部分が抜け落ちたようだ。知りたくなどなかった。底の無い絶望がモールスを冷たい虚無に陥れた。歩みを進める足に温もりを感じない。悲しみや寂しさなどではなく、この胸にあるのはただの虚無だ。
 あの記録書を読むまでに日が暮れかけていた。皆は宿舎に帰っただろうか。扉をくぐろうとしたその時、背中に届いた声が胸を突いた。
「モールスくん!よかった、ここにいたのね」
 冷水を浴びせられた心地だ。今までこのように感じることは無かった。ずっと懐かしいと、帰りたいと思っていた声が、今はこの世で最も残酷な声だ。
「もう遅いから宿舎に戻ってるよ。みんなモールスくんを探してた。さあ、帰ろう」
 モールスの手を取り、引っ張ろうとする義姉の手を振り払った。
「帰らない」
「え?」
 結晶灯の薄い灯りでも義姉の戸惑いの顔が見えた。モールスは義姉の足元に、義姉が書いた記録書を叩きつけた。驚いてそれを覗き込む義姉の顔が、一瞬で青ざめた。
「第二検体モールス。その前の第一検体リトは、途中で自我が発達したため当初の計画から逸脱した」
 モールスは震える声で言った。
「ちがう、ちがうのモールスくん。おねがい、聞いて」
「自我を獲得したことでリトは人間性が発達し、しかし精霊との干渉が活発になった。予想外の発見に、王は第二検体を創って再度実験した。今度は人間と精霊を両立させるため、初めから自我を与えて育てた」
「もうやめて…お姉ちゃん謝るから…」
「第二検体の名は、観察者が名付けた。その観察者は、テーラ…」
 口を閉じると、沈黙の中で義姉が崩れ落ちた。冷たい廊下にすすり泣きが響く。結晶眼鏡のせいでその涙は拭えないし隠せない。
「ずっと、最初から知ってたんだね…僕が普通の人間じゃないことも、僕の自分らしさは、大人たちに与えられたものだってことも…」
「おねがい、分かって、お姉ちゃんは本当に二人とも好きだったの。家族として愛していたの…」
「僕は作られたんだ。誰でもないんだ。僕は、僕らしく設計されたんだろ?精霊術も、兄さんとの思い出も、義姉さんが優しいのも、全部わざと大人たちがそうなるように用意したんだろ?」
「違うの、お姉ちゃんは本当にあなたの——」
「うるさい!もういい!」
 モールスは耐えかねて走り出した。義姉の横を駆け抜けて王宮の外を目指した。体を動かして熱くならなければ耐えられなかった。体が砂のように砕けて消えそうだった。
 走って無心になりたかった。息が詰まりそうなのは走っているからだ。王宮の門を出て夜闇に沈む街に出た。
 すべてが異物に見えた。本来この世に無いはずのものが溢れていた。いや違う、モールスが異物だ。
 この街が目に見えない何かでモールスを拒んでいた。この街にずっと違和感があったのは、自分がそこに属する存在ではないからだ。この街に求められて生きている命ではない。本来的に相容れない存在だったのだ。
 それを義姉は初めから知っていた。あの文書には自分のことを“検体”と——、初めから自分は観察対象だったのだ。モールスの微かな記憶にある義姉の姿は、記録書から読み取れる学者としての義姉と同じだった。心からモールスのことを愛してくれているのか、それともそのふりをして今でも観察を続けているのか、それが分からないのだ。
 得体のしれない不安と恐怖がモールスの胸を満たし、まとわりついた。それが怖くてモールスは走った。転がる玩具を踏みつぶし、錆びた硬貨(コイン)の山を蹴って殺した。やはりモールスは文明の一員ではない。トスやアクシア、皆と同じ人間ではない。本物の孤独だ。その寂しさに思わず義姉を思い浮かべた。寂しいときはいつも義姉を思い出していた。しかし今はそれがモールスを苦しめた。
 モールスは足を止めて左手の指輪を外し、背の高い草むらに放り投げた。もう拾い戻すことはできないだろう。もう義姉は要らない。誰も要らない。
 そこでようやく、モールスは泣いた。家族などいなかった。自分は初めから孤立して、義姉はそれを隠していた。ずっと騙していたのだ。
 急に裏切られた心地がして、胸の中央が寒くなった。冷え切った石畳に膝を崩し、壊れそうな胸を抑えた。すると、硬いものが触れた。鹿の角笛だ。
 ヨザクラがくれた笛を今でも持っていた。一度もうまく吹けたことが無いが、物でもなければ生き物でもない、独特な感覚に落ち着く気がした。その感覚がようやく分かった。自分に似ているのだ。冷たいはずの笛に温もりを感じた気がした。嗚咽も少しだけ落ち着いた。特に考えも無く、モールスは笛に口を当て、息を吹き込んだ。
 単調な一本の音が出た。続けて指を変え、音の変化で遊んだ。知っている曲も無ければ、当然弾ける曲もない。モールスは真に孤独なのだ。故にこれは——知らずに継承した誰かの記憶である。
 指が勝手に動く。眠りに近い意識の揺らぎが訪れ、ついさっきの涙の理由も曖昧になった。そうしてモールスは、笛の声を聞いた。


 最初に見えたのは船からの景色だ。屋敷のように大きな船で、迫る港を指さして嬉々とする繭姫が隣にいた。
 それから船を降りて、王国のあらゆる資料館や研究施設を見て回った。付き添いの侍たちは各地の商人たちと約定を交わし、物流網を広げて日ノ本の戦乱に備えた。それと同時に繭姫はコイン王国の学問や思想、信仰や風習を学んでいった。コイン語も少しずつ身に着けて言ったが、やはり辞書を手放せない。
「ねえ村道、天体観測所に行ってみない?」
 繭姫に手を引かれ、あらゆる風景を目にした。自分で進んだことなどなかった。行く先は常に姫が決め、ただそれに従うのみであった。
 彼女にはいくつもの壁があった。言葉や風習の違いに何度も直面し、当たり前として振舞っていたことが幾度もコイン人の不興を招き、いざこざが絶えなかった。それでも繭姫は常に進み続けていた。どこへ行くでもない、ただ進むのだ。
 儂は夜桜。闇の中で立ち尽くすのみ。我が主、高野人道より賜った姓に、いつしかそんな意味を擦り付けていた。だがこの姫は違う。どこまでも進んでゆく。その先が光りだろうが闇だろうが、その場に留まろうとしないのだ。だがそんな彼女は、一度たりとも儂を置いて行かなかった。


 地が揺れ、空に穴が開いた。不快な焦燥が肌を這う。内外の魂が震えるのを感じる。
「姫!早くお逃げを!」
 言ったが、それは覆された。
「村道、貴方は逃げなさい。私は留まらなければならない」
 今までになく冷たい声だった。まして姫が自らの口で“留まる”など言うはずがない。この国の大災害と共に、姫も変わろうとしている。
「いえ、お側にて貴女様をお守り申し上げます」
「私にも守るべきものがあるの。この精霊の雲を、日ノ本まで広めるわけにはいかない」
「いったい何を?」
「村道、よく聞きなさい」
 息を吸い、凛々しい眼差しを向けた彼女が言った。
「貴方には貴方の道があるの。だから——」
 その直後、精霊が国を呑んだ。


 そして全ての景色が闇に消え、代わりに精霊を通じて世界を見るようになった。夜の深い樹海の奥、吹き荒れる風の中に、彼らはいた。この風は人の魂を乱す。侍の心を持つ夜桜は耐えられたが、背後にいる彼らは耐えられぬだろう。
「隊長、俺たちどうなるのかな…」
 少年が呟いた。しかしその声は風にかき消された。皆目隠しをしているのは、大霊災を生き残った者の知恵だ。
「すみません、私の弟をご存じありませんか?」
 ヨザクラのすぐ後ろにいる若い娘が尋ねた。
「十三歳の精霊遣いの男の子です。銀の剣を提げています。名前はモールス。その子の行方をご存知ありませんか?」
「儂は目が見えん」
「そうですか、もしこの場を凌げたら、あの子を探すのを手伝ってはくれませんか?あの子だけは、私が守らないといけないのです。あの子は、誰よりも寂しがりだから…」
 声で分かる。胸が締め付けられるような切実な想いだ。かつての繭姫にも似た心の温度を感じる。だが姫は夜桜を独りにした。だがこの娘は、何としても寄り添わんとしている。形は違えど、想いは同じようだ。
「ああモールス、ごめんね。寂しくしてごめんね…」
 震える声が背中に零れる。吹き荒れる風の霊気を押し返すので精一杯で、身動きもとれぬ。そのモールスとかいう少年はさっき森で出会い、今もこの風と闘っていることだろう。だが気配が消えかけている。風の霊気に圧されたようだ。袋の鼠、まさに万策尽きたといえよう。
「大丈夫、モールスならきっと平気だ。あいつはすごい奴だって、俺は知ってる」
 コルンの少年が言った。夜桜はこの少年とモールスと、同じ場所で出会った。
「おおそうだ、俺の怪我も治してくれた。お守りの硬貨コインも持っている。きっと無事だ」
「ああ、あの子は賢い子だ。きっと生きている」
 少年の言葉を切り口に、結晶団たちの気力が戻ってきた。それが連結し、岩のように強固な意志が出来上がっていた。
「モールス、無事でいて、お姉ちゃんが必ず…」
 娘の切実な祈りが背中に伝わる。どこが懐かしい温度だ。そうだ、自分を顧みない愚直な慈しみ。心根から現れる真の思いやりを感じるのだ。言葉にもならず、ゆえに理由などない、ただ心が温度を発しているのだ。守りたいから守るのだ。
「あの少年は…強いぞ」
 声にならぬ小さい声で呟くと、風の流れが変わった。森の肺が、正しく呼吸し始めた。
「儂には儂の道がある——そういうことか」


 指が止むころには、曇天の向こうに月が昇り始めていた。冷たい風が頬を過ぎ、かじかんだ指が笛を落とした。固い石畳に落ちた笛は灰のようにもろく砕け、風に消えた。
 継承した記憶は途中から何も見えなかった。記憶の持ち主が目を失ったからだろう。ゆえに確かに感じたのだ。心の温度を。
 自分が危機に瀕しているというのに義姉はモールスを案じていた。それは今までモールスが感じたことの無い温かな心であった。いや、モールスがいないとき、義姉は常にその心の温度をモールスに向けているのかもしれない。モールスが気付いていないだけで、義姉はいつだって自分を想ってくれていたのか。
 それだけではない。結晶団の皆も、モールスを信じてくれていた。自分のいないところで、モールスはこんなにも支えられていたのか。
 もしかしたら今も——?各地のコロニーにいる人々はモールスを案じてくれているのかもしれない。孤独など、そう思うから自分で孤独に陥るだけなのかもしれない。
 全ての声が聞こえるわけではない。目の前にある事実だけが真実ではない。見えないところに居場所があったように、自分の足で確かめなければ分からないこともある。
——お主にはお主の道がある。
 ヨザクラが最後にくれた言葉だ。その意味はきっと、“進めばわかる”ということだ。
 モールスは立ち上がった。見るべき物を見に行って確かめよう。義姉に謝らないといけない。ひどいことをたくさん言ってしまった。それに義姉とともに向き合うべきものも——。
「モールス!ここにいたか!」
 息を切らすヴィアに乗ったトスが、結晶灯を左手に掲げて駆け寄ってきた。結晶眼鏡をしていても顔に焦燥が見える。ヴィアから降りる間も惜しいというように、トスは震える声で言った。
「お前のお義姉さんが、お前をずっと探してて、そして、その」
「義姉さん?」
 背筋が凍った。悪い知らせであることはすぐに分かった。聞かねばならないが、聞きたくない心の痛みもあった。
「今は、アクシアが守ってるけど、すぐにでもお前に来てもらわないと…」
「義姉さんはどうなったんだよ!」
 自分の恐怖心を払うように叫んだ。鞍の上のトスは驚いて出かかった言葉を呑んだが、覚悟を決めたようにゆっくり言った。
「テーラさんの…目に、結晶が——」


COIN~コイン~ 3章 完

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