見出し画像

読書レポート #11 『生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害』


この本を選んだ背景

私はときに、何もせずのんびりしたいと思うことがある。
"何もせず"というのをもう少し具体的にいうと「誰からも何も強制されることなく、何もしないでボーっとすごしたい」ということである。

"何もしたくない"を深堀りすると「他人に悪く思われてないかを気にせずに済む生活がしたい」が出てきて、「他人と交流することなくひとりで生活が完結するようにしたい」となる。

巷ではFIRE(経済的独立)を希求する人々が出てきているようだが、FIREの先に対人関係を介することなくひとりで生きていくこと願う人も一定数いるという。

しかしながら、本当の幸せには対人関係が必要だと思われる。
以前読んだ本のフレーズにこうしたものがある。

アドラーの語る「すべての悩みは、対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです。

幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ P178

対人関係はたしかに悩みをもたらす存在であるが、それと同時に喜びをもたらす存在でもある。

今までは何かと理由をつけて対人関係を構築せず生きてきてしまった私であるが、これからの人生ではもう少し対人関係を構築していって自分なりの幸せな人生を送りたいと思っている。

現状を変えるためには今の自分を理解する必要があると思い、関連する内容の書かれた本を探していたところ、今回読むことになった本である「生きるのが面倒くさい人」と出会った。

サブタイトルに「回避性パーソナリティ障害」と書いてあったためこれを調べると、下記のような記述を見つけた。

パーソナリティ障害とは、長期にわたって比較的一定している思考,知覚,反応,および対人関係のパターンのことである。
対人関係パターンのうち、拒絶に敏感なことによる対人接触の回避を行うパターンを回避性パーソナリティ障害という。

MSD Manuals パーソナリティ障害の概要

回避性は私の対人関係パターンそのものだと思った。私は"拒絶"されないよう「そもそも人と関わらなければそうした苦しみも生まれない」として対人関係を避けてきたからだ。

現状を改善するために回避性パーソナリティ障害の知見とその行動パターン・対処方法を考え、仕事とプライベートをよりよいものにしていきたいと思う。

内容

人生は面倒くさいことばかり

人生で面倒くさいことは数多くあるが、人と会うことを面倒くさいと思う人は多くいると思われる。

他人との接触が面倒くさいパターンは2つ存在する。ひとつは人と接触することに関心や興味がないパターン、もうひとつは人と接触することに気疲れしてわずらわしさを感じるパターンである。

後者のパターンにおいてよくあるのが、相手に気を使いすぎていることである。なぜ相手に気を使いすぎるかというと、相手の評価に敏感だからである。相手の評価に敏感な点を掘り下げると、自分に自信を持てないため相手の評価をもって自分の自信の根拠にしようとする傾向が見受けられる。

また、頑張ること自体を面倒くさいと思う人も多く存在する。
彼らは「どうせうまくいかないなら、最初から何もしない方がましだ」という心理から面倒くささを感じるのである。この心理に陥るのは、失敗を極度に恐れており失敗したくないがために最初から挑戦しないことを選択するからである。

頑張ることを面倒くさいと感じる人は「期待されるのも面倒くさい」と併せて感じることが多い。他人からの期待を過大評価し、大きなプレッシャーをもたらしてしまうからである。

他人との交流や恋愛・仕事などに代表されるように、社会との接触や責任の増大に対する負担を過大評価することで面倒くささを感じ、そこから逃れるという行動パターンは数多く確認されている。筆者はこうした行動パターンを取る人を”面倒くさい人”と表現しているが、彼らの心の奥底で何が起きているのかを次以降の章で解説している。

回避性パーソナリティ障害

”面倒くさい人”の背景にうつ状態があると感じる人も一定数いるかもしれない。しかしながら、筆者は違うと述べている。

うつ病になりやすいタイプはメランコリー親和型(真面目・誠実・強い責任感)または循環気質(社交的・活動的・波が激しい)とされている。だが、いずれも"面倒くさい人"の性質とは異なる。

"面倒くさい人"のファクターについて筆者は下記の3点述べている。

  1. 自己愛性

  2. 境界性

  3. 回避性

自己愛性とは、自分が特別でなければ満足しない傾向である。
華々しいこと以外は面倒だと感じるのは"特別なこと"以外に価値を感じないからである。

境界性とは、自己否定の強さから自分は愛されていないと感じ自己破壊的な行動を取ってしまう傾向である。境界性が高い場合、能力や機会に恵まれていたとしても空虚感などが拭えず面倒くささを感じて行動しないことを選択する。

回避性とは、生きることに伴う苦痛や面倒ごとから逃れようとする傾向である。現代人はこの傾向になってきていると筆者は述べている。回避性が高い状態を「回避性パーソナリティ障害」という。

詳しく言えば、自分への自信のなさや馬鹿にされるのではないかという恐れのために、社会とかかわることや親密な対人関係を避けることを特徴とした状態を指す。筆者はアメリカ精神医学会の診断基準をもとに、回避性パーソナリティ障害の行動特徴を述べている。

  • 他人の批判や拒否に敏感

  • 他人と親密な関係を築くことに対して臆病

  • 親しい関係でも自分を晒け出せない

  • "自分なんかが他人に好かれるはずがない"と思い込んでいる

  • 目標実現や新たなチャレンジに消極的

  • 対人関係に対する喜びや関心が少ない

  • 任意の対象のデメリットを過大評価する

  • 生きることに対する喜びが薄い

  • 対立や争いごとを望まない

  • 何かあった際の逃げ場所を確保したがる

上記のような特徴を述べたが、これらの根本は「傷つくことを避ける」ことである。

回避型愛着

人間は他の人と親しくなり、友達になったり、恋人になったり、一緒に家庭を築いたり、子どもを育てたりする。こうした人との結びつきは"絆"ともいわれ、絆が社会を社会として成立させている。実は、絆の正体こそ愛着といえる。

愛着とはなれ親しんだものに深く心が引かれることである。生物学的見地からすると、オキシトシンというホルモンによって司られる仕組みである。特定の他者に対して持つ情愛的な関係性であり、哺乳類全般に共有されている。

愛着は遺伝子レベルで組み込まれている仕組みであるが、愛着が湧くためにはオキシトシンを分泌させるスイッチを入れる必要がある。そのスイッチは、乳幼児期に母親からのスキンシップを受けることである。愛着が湧かない人達の多くは、乳幼児期に親から離して生育されたりネグレクトを受けたりしているという。

愛着のタイプは4つに分けることができる。他人を信じ、愛することができるタイプを「安定型」という。一方、他人を信じられず愛することができないタイプを「不安定型」といい、不安定型は3つに分けられる。

他人に対して全く期待をしなかったり人の好意や親切も求めないタイプを「回避型」、見捨てられることに恐怖を感じるあまり相手の顔色を伺ったり他人を困らせるタイプを「不安型」、回避型・不安型の両方の性質を併せ持つ「恐れ・回避型」が存在する。

"かかわり不足"を乳幼児期に受けた子どもたちは愛情不足の環境に適応するために回避型や不安型といった愛着スタイルを身に着けるのである。

回避性パーソナリティと回避型愛着は似て非なる存在である。回避型愛着は相手に何も求めないことが特徴である。一方、回避性パーソナリティは相手に求めるものはあるが恐れのためにそれができないことが特徴である。

子どもが回避型愛着スタイルを選択してしまう背景にはネグレクト等が挙げられるが、昨今増えている原因がある。それは、本人の気持ちを無視して親が一方的に世話や期待を押し付けたケースである。

安定した愛着は、本人が求めれば応えるという応答性の上に成り立つ。しかし、求めてもいないのに親が手出し口出しすることで親が安全基地として認識されない原因となる。

「傷つきたくない」性格はなぜ生まれるのか

回避性の人は、他者から笑われたり貶められたりして傷つくことを恐れている。恐れから他人の視線や評価を避けている自分を俯瞰すると、まるで逃亡者のような自分に気づくときがくる。

他者から傷つけられることを避けたら逃亡者のような自分に情けなさを感じて自分の心に傷つけられることに気が付く。こうしたことに気づいた人は、何かに集中して視野を狭窄させることで心に傷がつくことを考えないようにするのである。

現代ではスマートフォンを通して様々な娯楽やゲームが提供されている。こうした手っ取り早い気晴らしは、視野を狭窄させるツールとして十分に機能する。

しかし、なぜそこまでして傷つきたくないのか。筆者はこの章では傷つきたくない性格の背景について解説している。

親や家族から否定され続けてきた
自分にも他者にも否定的なイメージを持つ恐れ・回避型愛着の背景には、親や家族から否定され続けたことが多い。親に助けを求めたときに助けが来るどころか突き放されることで「他人は助けてくれない」というイメージが定着する。

学校などで恥ずかしい思いを多くした
より具体的にいうなら、いじめを受けた経験は回避性パーソナリティを助長しやすい。いじめは暴力的なものもあるが、多くは相手を貶めたり辱めを受ける姿を眺めて面白がるといった陰湿なものが多い。厄介なのは、こうした辱めは"自分が悪いんだ"という思い込みに陥りやすいところである。自分が悪い、というのはそのまま自己否定につながるのである。

主体性を奪われる体験をした
やりたいゲームがあったのに親に取り上げられた、読みたい本があったのにそれを目の前で親に燃やされた、入りたい部活があったけど親から否定された、入りたい学校や学部を親都合で変えさせられた…など、親の都合や思い込みで自身の考えや希望を否定された経験のある人は多い。
これは親の過干渉が背景にあり、子どもの教育にお金や手間をかけることができるようになった現代で起こりがちなことである。

回避性の強い人は得てして自己が確立されておらず、自己評価が低い。彼らにとっては社会人として一人前になって大きな仕事を任されることやパートナーと結婚して子供を含めた家庭を持つことは負担が大きすぎるのである。

親から期待や責任ばかり押し付けられて育つと、それが重荷になってしまい大人になることに喜びや希望を感じられないという。自分のやりたいことを親につぶされた彼らにとっては成熟した大人になることへの拒否が親に対する最後の抵抗となる。

回避性の人が過ごしやすい仕事とは

回避性の人が過ごしやすい仕事を考えると、以下の要素をいくつか満たすものが良い。

  • 毎日決まったルーティンワークをこなすこと

  • 自分の仕事にじっくり取り組めること

  • 強い刺激はなく感情的なやり取りが絡まないこと

  • 対人折衝が少ないこと

  • 競争やノルマに追われないこと

  • 素早い判断・迅速な行動が求められないこと

すべて満たすものはおそらくないが、いくつか満たすものはある。筆者は下記の例を提示している。

専門資格職の一部
司法書士・行政書士・土地家屋調査士・社会保険労務士・
医師(生死にかかわりにくい領域限定)・
理学療法士・臨床検査技師・言語聴覚士・眼鏡士

専門職公務員
公務員は他社に打ち勝つ仕事というより、地域住民のためにこなす仕事という側面が強いため、競争が少なく勤務地域や労働環境の変化も少ないことが多い。専門職公務員はその中でも環境の変化や仕事内容の変化は少ないため、回避性の人にとっては過ごしやすいといえる。

事務職
その中でも、経理事務や施設管理事務は比較的対人折衝が少なく手順の順守が重要なことが多いため、回避性の人に向いた職業といえる。

技術職
技術職の人たちは「よくしゃべる人は何をしでかすかわからない」という印象を持つようで、むしろ黙々と作業を行ってくれる人に対して堅実で信頼できるとみなす傾向がある。このため、需要の高い技術を身に着けられた人なら回避性にとってこの上ない環境を手にする可能性が高い。

現場作業員
工場・倉庫・施設といった現場で清掃や点検・警備といった保守管理業務をすることが挙げられる。上長によってはおしゃべりな人や頑固で厳しい人もいるだろうが、彼らも根が優しく親切であることが多い。守備範囲が明確なことが多いので、慣れれば居心地はよいだろう。

恥や恐れを気にせず自由に生きる方法

ここまで語ってきたように、回避性の背景には幼少期の親の関係性が絡んでいる。また、人前で辱めを受ける体験により回避性に拍車をかけてしまうこともわかっている。

親から放置されることで他人に期待や愛を抱かず、他人とのコミュニケーションを取らないことでコミュニケーションに自信を持てなかったりする。逆に、親から世話や期待をかけられすぎることで新しいことに挑戦する心理的ハードルが高くなってしまったりもする。

高すぎる期待により、非常に高い成果しか成功と判定しないことで"成功体験の喜び"を感じられずに自己評価を過剰に低く見積もってしまい「私にはこれをやる資格なぞない」として挑戦がおっくうになる。

幼少期の体験がもたらす影響は大きいものの、回避性パーソナリティ障害を克服して生きていく道筋はある。一番大事なのは、安全基地を作ることである。安全基地があることで失敗しても戻れる環境が整い、挑戦することができるのである。

安全基地を作るためには第三者の援助が欠かせない。特に親との関係性が険悪な場合は第三者が当人へのアドバイスと同時に親の認知を変更させる必要がある。第三者がいったん安全基地役を受け持ち、徐々に親か当人が見つけた信頼できる人に安全基地を作れるようにするまで支援することが必要だろう。

また、当人は自分の決めた道を進むと決め、行動することが必要である。そして、援助者と親はその邪魔をしてはいけない。自分で進む道を決め、それを歩み続けることが回避性パーソナリティ障害の克服の道筋なのだから。

回避性の人は何かをやろうかやらないかとしたときにやらない方を常に選ぶ。やらないことでせっかくのチャンスを逃がしているのである。やる方を選択するだけでいいのだが、ここで自己評価の低さや親・周囲からバカにされたときのトラウマが邪魔をする。

高い期待は回避性の人を苦しめる。そのため、回避性の人が何か新しいことを始める際の目標は低いところから始めることをより気を付ける必要がある。

学んだこと

この本を読み、"他人と何かを成し遂げる"ための愛着の理解を深められたと思う。

回避性の人の行動の根本は「傷つくことを避ける」である。

傷つくことを避ける原因として、両親から無視または過保護の状態で育てられたことによる不安定型の愛着となっていることが挙げられる。過保護というのは過度な期待であり、子どもの希望を無視した押し付けによって子どもの主体性が奪われる行為である。

ここでの主体性とは、自らの希望を自らの努力で叶えるための行動をとることである。押し付けはそうした行動を否定するものと子どもは捉えるため「頑張っても否定されるから、最初から頑張らない」という心理になりがちである。

私は幸いにも親からのネグレクトや過保護は受けなかったが、多少なりとも周囲から辱めを受けたことで他人との交流をせず自らの世界に閉じこもるようになった過去がある。

その過程で陸上競技と出会い、陸上競技の世界に没頭することで対人関係から逃げてきた。しかしながら、陸上競技に没頭することが奨励される学生時代までは良くても社会人として仕事をする上では立ち行かなくなってきた。

特に最近はゲームに没頭したり映画を観たりたくさん食べたりと"消費するだけの娯楽"がだんだん楽しめなくなってきた。なぜなら「消費するだけでは何も生み出していない、何かを生み出しながら楽しむにはどうすればよいのか?」という点を考えるようになったからだ。

考えに考えた末にたどりついたのが「他人と協力して何かを生み出すことに人生を使うこと」であった。他人と話をして心の距離を詰め、仕事をしたりする。相手によっては一緒に遊んだり家族となってともに生活を支えあったり、子どもを設けて育児をする。

そうすることで今後の人生をより楽しめると感じたからだ。そのためにはコミュニケーションを楽しむことや安定的な愛着を心掛けることが不可欠である。

"人間関係なんていらない"と考えてきたが歳をとるにつれて"人間関係を深めて誰かと何かをなすことへの憧れ"がようやく芽生えた私にとってこの本は今後の道筋を確かにする一助になったと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?