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雑感81:客観性の落とし穴

「エビデンスはあるんですか」「数字で示してもらえますか」「その意見って、客観的なものですか」
数値化が当たり前になった今、こうした考え方が世にはびこっている。その原因を探り、失われたものを明らかにする。

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客観性のみを判断基準とすること、ある意味妄信することに警鐘を鳴らした作品。

前半は客観性にまつわる人類の歴史、後半はそれらを踏まえた上でどのように生きていくべきか、数値だけでは決して見えてこない「経験」とは何なのか、という作者の訴え・・・と言って良いでしょうか。

Amazonのレビューにあった「質的研究を行う研究者による量的研究への応答」というまとめ方で非常にスッと落ちました。まとめ方、うまい。

「客観性」の危うさについて、ある意味哲学的に、観念的に、抽象的に吟味するのかな、と思っていたのですが、ちょっと想定とは違いました。後半は著者のいわゆる「社会的弱者」への過去のインタビューの抜粋を軸に、「経験(≒質)」に関する議論が進みます。

何でもかんでも数値化して評価するようになったのは、人類の長い歴史の中で、ここ200年の出来事だと。

フィンランド人にとっての「良い学校」は「家から一番近い学校」だと。これはスラムダンクの流川楓とは関係なく、学校間に競争がなく、生徒が興味にしたがってプログラムを組み、自由に学ぶからだとのこと。日本の良い学校/悪い学校は、いかに効率的に詰め込む要領を得ているか、が判断基準になっているような気もします。

学生時代はいかに良い成績を残すか、社会人になるといかに会社の業績に貢献するか、が自身の背骨のようになってしまい、老後は自身の健康状態を事細かく管理され、死ぬまで数値に追いかけられ続ける社会。

仕事の仕方、プライベートの過ごし方、税金の使い道だってなんだってとにかく効率性を求める時代。「コスパ」に加えて「タイパ」の時代。

数値の裏に潜む、と言うか、結果として数値となって現れるそれぞれの経験、出来事、事象・・・をいかに見て、聞いて、感じて、学ぶか、・・・という当たり前と言えば当たり前のことを痛感します。

人間に序列を付けることが当然となった現代の社会システムにおいて、数値的(客観的)な何かしらの線引きで以ってして多数派と少数派に別れ、それは貧富の差だったり、障害の有無に関する線引きだったりするのですが、多数派が数値的な妥当性(・・・時に暴論、数の暴力)で、自身の立場を維持すると同時に少数派をシステムの隅っこに、・・・外に追いやるという一種の現代社会のスタンダード、膠着的な集団思考の危険性・脆さを垣間見ました。

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