見出し画像

点と線

 世界には情報が溢れすぎている。そして,スマートフォンでどれでも簡単にアクセスできる。そのせいで,自分の中の情報はどれも点としてばらばらに存在していく。きっとあの点とこの点は隣同士なのに,しばらく,ながらく,気がつくことができない。
 生きていると知らないことに出会う。子どもたちは無邪気に大人に物を聞く。大人はなんでも知っている存在だと思っている。そして,いつか気がつく,大人は知らないことがほとんどなのに,なんでも知っているふりをして生きているのだと。自分自身も大人になるにつれて気がつく,知らないものがあることを知らないことにしている。自分はなんでも知っているし,もちろん相手もなんでも知っている。そんな前提で,大人たちは互いに関係を築いていき,やがて,本当になんでも知っているのが大人だと思い込む。本当は何にも知らないのに,そんなことさえ忘れてしまう。
 しかし,情報化社会の発展は大人たちの感覚を変えていった。少なくとも私はそう思う。手のひらより少し大きい端末は,自分の知りたいことをなんでも教えてくれる。その情報は正しいのか,正しくないのかわからない。でも,googleに知らない単語を入れれば,簡単にその答えへと辿り着く。大人が知らないことを,子どもたちは知っている。それもたくさん追いつけないぐらい。
 大人だって負けていない。知らないことはその場で調べる。わかった気になる。自分の中に輪郭のはっきりしない点が増えていく。それで納得した気になる。やはりここまでが大人の限界みたいだ。子どもたちは,調べた結果から新たな疑問へと繋げる。そして,点と点がつながり線になっていく。その線の先は国境を越えて,大気圏を越えることもあるだろう。子どもの吸収力ならね。
 とかく,大人たちは抱えきれないほどの曖昧な点を持っている。相互に関係し合っているのかさえ知らない。知りたいとも思っていない。だって,それぞれの点は独自に完成しているものと思っているのだから。輪郭がぼやけていることにさえ気がつかない。だって,完成しているものだと思っているのだから。
 気がつけば歳をとった。私の中の点も増えていった。不確かなものばかり増えていった。読書をするようになって気がついた。断片で知っていることの多さに。断片しか知らないことの多さに。抱え込みすぎて,もうどれがどれかわからない。でも,本を読むことで,また多くの知識を,比較的綺麗な形で得ていくことで,点は線となり,面を形成していく気がしている。子どもの頃のように,点と点を結んで線を作っていくのではなく,持っている点が互いに集まって,隣り合って,線になっていく,そんな感じで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?