コンピューターゲームの本質

コンピューターゲームの本質について考えてみました。本質とは要するにこれがなくてはコンピューターゲームではない要素のことです。コンピューターゲームにはアーケードゲーム、コンシューマーゲーム、携帯型ゲーム、携帯電話ゲーム、オンラインゲームなどさまざまな種類があります。これらの本質とはなんでしょうか?すこし哲学的なことを書きたいと思います。

色々なゲームを思い浮かべてみると一つどれにも当てはまる要素があります。スクリーンです。コンピューターゲームは映像が表示されたスクリーンを見ながら遊びます。インベーダーゲームでもドラクエでもプレイヤーは画面にかじりつきながらプレイします。スクリーンには多様な色と形が映しだされますが、なによりも大事なのはそこにプレイヤーが操作できるキャラクター等がいなければなりません。

この動かせる部分は色と形をもつ場合、周囲と明確に区別されている必要があります。さもなければ周りに溶けこんでしまい識別不可能になってしまいます。結論から言ってしまうと、テレビゲームの本質を組成するのはこうした操作可能なものです。これは統一体をなしています。スーパーマリオブラザーズであれば赤い帽子とズボンを身につけた人物のドット絵が操作可能です。インベーダーゲームでは画面下を横方向に移動するものがこれです。モンスターハンターシリーズであればアバターがこれにあたります。戦略シミュレーションゲームや将棋ゲームであれば複数の要素(部隊や駒)を操作できます。プレイヤーによって操作可能なこの要素は変化します。言い換えるとこの要素は時間の内にあるわけです。コンピューターゲームには操作可能な要素が欠かせない。当該要素は時間内の存在である。したがってコンピューターゲームと時間は切り離せません。

プレイヤーがこの要素を視認できるゲームには例えばマリオやゼルダシリーズがあります。なかには一人称視点ゲームのようにこれが表示されないゲームもあります。スカイリムなどがその事例です。このゲームでは移動すると周囲の景観が変化していくだけで、目に見えるキャラクターが動いてはいないのです。しかし、プレイヤーは自分がアバターを動かしていることは認めるでしょう。目に見えていないものの自分はキャラクターを動かしていることは知っています。つまり見えていなくとも操作できる要素はプレイヤーにとって存在するわけです。要するに見えているかどうかに関わらず、プレイヤーによって操作可能な要素の存在がコンピューターゲームの本質の一部なのです。別の言い方をすると、もしこの要素が無ければそれはコンピューターゲームではないでしょう。スクリーンの前にコントローラーを持って座り、いくらボタンを押しても全く画面に変化を起こせないゲームなどあるでしょうか。

このコントロール可能な要素はそれが移動可能な空間を伴っています。この空間はゲーム空間と等しくはありません。スカイリムであれば空中など見えていても移動できない空間があります。ストラテジーゲームのマップで背景に山が描かれているとして、そこにキャラクターを移動させられないということはよくあります。若干難しく言うと、ゲーム内で表象される空間のうち塊(マリオ、リンク、スネーク)が移動できる空間は必ずしも一致しないのです。

この可動空間で大事なことは、われわれがテレビゲームをする際、被操縦要素にこの空間を適切に移動させていけばいつかゲームクリアできる、ということを信じている点です。もしマリオをどう移動させてもゴールに辿りつけないステージがあればこれはゲームとして成り立たないはずです。このタイプの空間もテレビゲームの重要な要素だと思います。

最後に、コンピューターゲームの本質である操作可能な要素をさらに詳しく調べたいと思います。私が思いつくかぎり、この要素はなにかのイメージであることが多いです。何かの描写になっているのです。例えば赤と肌色の塊がマリオという人物を描写したり、丸みを帯びたピンク色の塊がカービィと呼ばれる生き物を表現したり、白く細長い塊が宇宙船を表しているわけです。このようにたいていのコンピューターゲームでは動かせる要素は像として機能しています。

ではこの要素は必ず像でなければならないかといえば微妙なところです。事実論だと像になっていない、つまり何も描写しない塊を動かすコンピューターゲームはなさそうです。しかし例えば青色の丸い塊を操作して飛んでくる赤い四角の塊を避けるゲームというのも想像できなくはありません。像を持たないゲームというのもありえるとすれば、像がコンピューターゲームの本質とはいえなくなります。





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