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『都知事の虚像~ドヤ顔自治体の孤独なボス』⑧あえて〝舛添的都政〟を再評価する

 舛添要一氏が都知事選に立候補した当時、私は都庁担当記者として都知事選の取材に携わっていました。石原知事、猪瀬知事と2代続けて都知事が任期途中に辞任し、そのたびに都政を振り返る連載を書いたり、選挙の取材に追われていました。不祥事となれば、ワイドショーの報道に振り回され、疲れる割には得られるものがない。この人が都知事になれば、しばらくは安定した都政が続いて、落ち着いて物事を考えることができるかもしれない。記者としてそんな期待を抱きながら、舛添候補の動静を追っていました。

 ある日、東京メトロの綾瀬駅で舛添候補の街頭演説があり、取材に駆け付けました。当時の舛添氏はとにかくリップサービスが多い。あれもやる、これもやる。演説を聞きながら、ほんとかよと耳を疑いもしましたが、現職が立候補しない新人同士の争いとは現実離れした政策論争になりがちで、往々にしてそんなものなのかもしれません。

 小雨混じりだったので、応援に駆け付けた地元の区議会議員の一行がビルの軒下で、舛添氏の演説を聞いていました。舛添候補の渾身の訴えに大きな拍手がわきましたが、区議の一人が舛添氏に背を向けたまま「大盤振る舞いだよ」と嫌味ったらしく笑うと、周りの区議もゲラゲラと笑いました。

 舛添候補は、自民党や公明党の推薦を受けていましたから、地元選出の議員が勢ぞろいして、声援や拍手をおくっていました。しかし、本音では彼を支援することに複雑な感情を抱く関係者は少なくなかったのです。別の機会にも述べる予定ですが、自民党による都知事選候補者選びは、「勝てる候補」選びであって、「都知事にふさわしい候補」選びではありません。

 だから、2011年の都知事選で、自民党は辞める気満々の石原知事に立候補を要請したのです。

 舛添要一氏は、自民党にとってベストは候補ではなかった。しかし、そういう経緯はあるにせよ、15年にもわたった〝石原的都政〟の終焉を、自民党に限らず、与野党を超えて望んでいたはずでした。都庁の職員からの期待も大きかったことでしょう。

 でも、そういう知事と支援政党との微妙な距離感が最後には舛添氏にとって落とし穴となってしまったような気がします。

〝舛添バッシング〟に明け暮れたワイドショー

 私は、舛添氏もワイドショー政治の生け贄でしかなかったのではないかと思うのです。テレビ番組は全国ネットで朝から晩まで〝舛添バッシング〟に明け暮れ、都政など知らないコメンテーターが好き放題に舛添氏を叩いていました。

 当時、テレビ朝日の情報番組『ワイドスクランブル』のメインキャスターを務めていた橋本大二郎元高知県知事は、『都政新報』(2019年2月15日号)でこう振り返っています。

 本当にマスメディアはあれで良かったのか。舛添問題は、最初に本人が頭を下げて謝罪してしまえば、こんなことにはならなかった。自分でお金を払って雇った弁護士を第三者委員会と称して調査させたり、スイートルームに泊まらないと相手が会ってくれないとか、変な言い訳をした。舛添氏も悪い。
 だけど、マスメディアも視聴率の呪縛から逃れられなかった。
 民主主義は有権者のレベルを超えた代表は選べない。それと同じように、テレビとは視聴者のニーズや嗜好を超えた番組は作れない。しかし、それでいいのか。もっとポートフォリオを意識して、視聴者は見ないけれど報じるべきニュースや、必ずしも必要ないが、ある程度数字を稼げるネタ、社会的には全く無用だが、とにかく数字は取れるというネタをバランス良く組み立てる中で、情報番組は成り立つのではないか。

 番組の当事者でさえ疑問に感じながらも、テレビはどんどん〝舛添バッシング〟の比率を増やしていきます。記者会見が開かれるたびに会見場をワイドショーのリポーターなるものが占拠するようになり、会見のたびに炎上が繰り返されました。私はそれを見ながら、「猪瀬知事の時と同じだ」と思いました。

 舛添氏も猪瀬氏も、ワイドショー政治に翻弄されたと言えます。そこは同情するしかありません。ただ、2人とも共通して、自己愛が強すぎたのだと思います。だから、自分にとってネガティブな情報が出てきたときに適切に危機管理できなかったのです。

 猪瀬氏は最初に「徳洲会マネー」について朝日新聞の記者から取材の電話をもらったときに、適当にごまかしてしまいました。

【記者】知事、きのうの朝日新聞の取材では、ご存じないというお答えだったのが、こういう形になったということで……。

【知事】あれ、夜中の12時半ごろで、急に電話がかかってきて、僕がまだいろいろと外でやってるときに、音がうるさくて、よくわからなかった。いきなりかかってきて。そういうことなので、その電話のやりとりは、ちょっと意思がきちんと聞き取れなくて、あとは、早口で言って、よくわかりませんでした、はっきり言って。

https://www.metro.tokyo.lg.jp/GOVERNOR/ARC/20131224/KAIKEN/TEXT/2013/131122.htm

 ファーストコンタクトに失敗した。ここに尽きます。

 これは舛添知事も同じで、まさか政治資金問題で足元をすくわれるとは思っていなかったのではないでしょうか。湯河原通いが報じられたときにも記者会見では記者に逆質問して、印象を悪くしてしまいました。海外出張における飛行機のファーストクラス利用を突っ込まれても、あたかも当然という顔をしていたのです。

 一方で、舛添騒動から都民・国民が得られたものはなんだったでしょうか。都政はそれで何らかの浄化がなされたのでしょうか。

 悪人が成敗されて、スッキリしただけではないですか。

 例えば、舛添氏の政治資金を巡る公私混同は、都知事になってから始まったものではありません。都知事選の前にワイドショーがその問題を取り上げたでしょうか。毎週金曜日に公用車で湯河原の別荘に通った問題について言えば、そもそも都庁に週2回しか登庁しなかった石原知事の危機管理が万全だったと言えるでしょうか。

全米桜祭りという鬼門

 舛添知事は自著『都知事失格』で、2016年4月の米国出張をきっかけにバッシングが高まったと書いています。

 この米国出張は、ワシントンD.C.で開催された全米桜祭りに出席するためでした。後に批判を浴びましたが、飛行機はファーストクラス、ホテルはスイートルームでした。この出張の最中に熊本地震が発生し、パレードでご満悦の笑顔と対比されてしまい、ワイドショーの視聴者の印象を悪くしました。それは確かにそうです。

 しかし、この連載を初回からお読みの方はお気づきでしょう。

 石原慎太郎知事も、この全米桜祭りに参加しています。しかも、現地で公務とは関係ないシンポジウムにまで参加し、都が尖閣諸島を購入すると発言しました。当時のマスメディアはそのことばかりを報じましたが、この海外出張もやはり飛行機はファーストクラス、ホテルはスイートルームだったのです。

 東日本大震災から1年しか経っていません。福島第一原発の事故が収束しない中で、米国で〝なんちゃって領土紛争〟の口火を切ったのです。その後の都政の大混乱と、現在に至る負の遺産を見れば、石原知事こそ辞任に値します(実際、任期途中に辞めましたが…)。

 はっきり言います。

 舛添騒動はバカげていました。

 もちろん、舛添知事の政治資金を巡る公私混同は是正すべきものです。都知事の豪華海外出張も見直すべきです。しかし、そういう舛添氏の都知事としての立ち振る舞いは、4年に一度の選挙で有権者の審判を受ければ良かったのです。後先考えずにワイドショーでバカ騒ぎして、辞任にまで追い込んで、膨大な選挙費用をどぶに捨てて、いったい都政の何が適正化されたのでしょうか。

 舛添知事は、自民党と公明党が推薦して当選しました。両党は〝製造者責任〟を果たしたのでしょうか。とりわけ、舛添知事の辞任の決断に大きな影響を与えたのは、公明党の態度の豹変です。石原都政、猪瀬都政と、自公主導で都政を動かしてきた事実を横に置いて、舛添おろしに加担し、しれっと小池都政の与党に座っているのですから、政治とは怖いものです。

 『都知事失格』で印象深かったのは、舛添知事に対する都議会自民党幹部のアドバイスです。

 「舛添政権を維持するには、ポピュリズムと妥協するしかない」

 こういう表現は、〝都議会のドン〟こと内田茂元都議がいかにも言いそうなセリフですが、具体的に誰が言ったのかは書いていません。この四半世紀の都政は「ポピュリズムとの妥協」の産物でした。青島ポピュリズム、石原ポピュリズム、猪瀬ポピュリズム、そのときどきの妥協が現実の都政そのものです。

 しかし、舛添知事が妥協に妥協を重ねても、バッシングが鳴りやむことはなく、最後には辞任に追い込まれました。舛添氏はこう振り返っています。

恨み節に聞こえてしまうかもしれないが、「知事、国会時代のことは忘れてください。ここは全く別の国ですから」と最初に忠告してくれる職員がいたならば、私は落とし穴に落ちなくて済んだのかもしれないと思うのだ。

 この連載のタイトルを「ドヤ顔自治体の孤独なボス」としました。舛添知事もおそらく孤独だったのではないでしょうか。いや、孤独とは気づいていないで、辞職を前にして痛感したのかもしれません。「首都のリーダー」とか「首相を狙っている」とか、マスメディアにもてはやされ、毎日テレビカメラに追いかけられている割には、都知事とは孤独な存在です。

 おそらく、石原知事も、猪瀬知事も、〝孤独なボス〟だったのです。

政治家・舛添要一を評価するつもりはない

 私は政治家・舛添要一を評価するつもりは毛頭ありません。都知事としての器もないのに自民・公明に担がれて当選してしまい、超巨大企業の社長のつもりでファーストクラスで海外出張し、スイートルームの宿泊を満喫し、毎週末に湯河原の別荘に通って温泉に入っていたのです。本来、舛添氏が都知事選に立候補したければ立候補すれば良かったのであり、その知名度を自民党や公明党がうまく利用して「勝てる候補」に仕立て上げたところから悲劇は始まっていたような気がします。そこは同情します。

 しかし、私は舛添氏が都知事就任時に掲げた理想については、支持したいと思います。

 まず前提として石原・猪瀬都政はどうだったのか振り返ってみてください。この連載でもしつこく論じてきたことです。つまり〝石原的都政〟とは何だったのか。

 石原・猪瀬都政では思いつきの政策がトップダウンで決まり、庁内での熟議がないまま実行に移されてきました。それが結果として尖閣諸島の寄付金や新銀行東京の設立といった都政の負の遺産として放置されてきました。石原都政では側近を副知事に登用して、議会と対立したあげくに更迭せざるを得なくなったり、「民間副知事」の名のもとに猪瀬副知事がパフォーマンスに明け暮れるという〝お友だち人事〟の弊害も指摘されてきました。

 舛添知事は2014年2月12日に初登庁し、職員へのあいさつでこう述べました。

 行政は机上の空論であってはならない。打ち上げ花火のように大衆受けすることを述べたからといって、行政の成果が上がるわけではない。地道に政策の勉強をし、それを実現させるために障害となっていることを一つひとつ取り除いていく必要がある。そうすることによって初めて大きな仕事ができる。行政とは忍耐の必要な作業で、政策決定過程において、いかにして合意形成を図るかが重要。「万機公論に決すべし」という。広範な意見に謙虚に耳を傾け、ひたすら都民に尽くすという姿勢を堅持することを強く求める。

 舛添知事は、全局長を集めた初庁議で、「劇場型の都政にする気は毛頭ない」と宣言しました。さらに、二元代表制の原則にも触れ、「知事と議会は車の両輪。両方の歯車がきちんとかみ合って前進しなければ、都政は方向感覚を失う」「知事が独断専行するような愚は避けるべき」と述べました。

 劇場型の都政からボトムアップの熟考型都政へ。少なくともこの瞬間は都政が大きく変わるのではないかという期待を持ちました。

 都議会の審議も変化が見られました。

 例年、予算審議では石原知事と共産党のバトルが話題になりました。その火付け役はほとんどが公明党です。公明党が質問し、石原知事が共産党を罵倒し、そのやり取りを翌日に公明党の機関紙やビラで大々的に拡散する。その阿吽の呼吸にはいつも感心していました。

 公明委員 このチラシのように、うそをしゃあしゃあといって、まことしやかに都民をいいくるめようとする、こういう日本共産党の体質について、知事はどんなご感想をお持ちか、所見を伺います。

 石原 アフリカにはよくありますね、ハイエナという非常に下劣なけものが。私は、非常にそれによく似ているなという感じがいたしてなりませんが、まあ、知る人はこれを知るでしょうし、しかし、やっぱりこういう機会を通じて、こういう政党の虚構、非常にあしき特質というものを都民が多く知るということは、民主主義の健全な発展のために私は好ましいことと思います。

(2001年3月16日都議会予算特別委員会)

 しかし、舛添知事はそういう公明党の挑発には乗ることはなかったです。2016年の予算審議では公明党の都議が30分もかけて共産党を批判しまくったにもかかわらず、舛添知事は自分の政治の原点について粛々と解説して答弁を終えたので、「もう少しちゃんとお答えいただきたかった」と公明党都議が残念がっていました。

 公党を批判したければ勝手に批判すればいいのに、わざわざ議会審議で第三者の口に言わせようと誘導するのだから厄介です。しかも、それが「与党」を標榜しているから、なおさらめんどくさいのです。そうやって知事が利用されるのは、知事答弁に重みがなく、いつも適当なことをしゃべっているからですが、舛添都政になってからは、石原・猪瀬都政のように、議会審議で、知事の悦に入った独り語りを聞かされることは減りました。

 舛添都政の政策や舛添要一本人の資質を評価するつもりはありません。しかし、少なくとも都政は徐々に正常化しているように見えました。

「車の両輪」の理想と現実

 舛添知事の初日の発言が本人だけの考えだったとは、私は思っていません。これは長年にわたり劇場型都政に振り回され、その追認機関と化していた都議会サイドの思いが入っていると感じます。

 2005年に〝やらせ質問〟を巡って都議会に百条委員会が設置されました。この連載でも書きましたが、この問題は、執行機関側が権力闘争で主導権を握るために都議会にやらせ質問を働きかけるという、二元代表制を揺るがすような大事件でした。そのときに当時の議長が証人として委員会に立ち、こんな発言をしています。

 地方自治体は、ご承知のように二元代表制で構成されております。そして、対等の関係であると位置づけられています。しかし、全国三千三百余の地方自治体、さまざまな自治体の議会の皆さんとお話をするときに、よく車の両輪という言葉を使って、まあそういっているけど、執行機関側の車輪が大き過ぎて、まさに隷属的な機関になっているのは現状否めない、よくそういうことをいわれております。なれば、議会として変えていけばいいじゃないか、私はそういう思いで、またこの三十年間、議員として議会の中で活動をしてきたつもりであります。
 私は一年半余前の議長就任のときに、二元代表制の一元を担う議会という言葉を使わせていただいて、あえてこの二つの組織がお互いに緊張し合い、切磋琢磨してこの行政運営をしていくことが、究極は、その地域の住民、そして地域を構成するすべての人々に対する行政サービスにきちっとはね返っていくんだ、こう申し上げて、私は議長あいさつをさせていただいたわけでございますが、一貫して私は、議会の子としてこのことにずっと邁進をしてきたわけでございます。
 ですから、今、地方分権がいわれ、そしてこの地方分権がなぜいわれているのかというと、やはり政策官庁は国にあり、そして地方自治体はそれを行う事業体にすぎない、いわゆる三割自治、こういわれてきた事実を脱皮して、二十一世紀、本世紀は地方自治の時代だ、地方主権の時代だ、こういわれている中で、地方自治体が政策自治体に変わっていかなければいけないし、同時に、議会もその権能を高めて、そして政策自治体に、政策議会に変わっていかなければいけない、こういう思いでさまざまな取り組みをさせていただいてきたところでございます。

 これは〝都議会のドン〟こと内田茂氏の発言です。小池知事が最初の選挙で叫んだ「ブラックボックス」だの「都議会のドン」といった罵倒からは考えられないほどの正論だと思います。

 ただ、この連載でも書きましたが、この権力闘争の結果は、仕掛けた側の知事側近が都庁を追われ、権力の中心が〝都議会のドン〟に移行しただけでした。二元代表制は正常化するどころか、石原知事は都政とは関係ないマターで好き放題にパフォーマンスに明け暮れ、一方の都庁では都幹部が〝内田詣で〟を繰り返していたのです。

 では、舛添知事は「劇場型都政からの転換」という初心を貫けたのでしょうか。

 私は残念ながらノーと答えざるを得ません。

 舛添知事が庁内の熟議や都議会との意思疎通もなくぶち上げたのが東京迎賓館構想です。浜離宮恩賜庭園に明治時代にあった「延遼館」を復元しようというものです。広域自治体たる東京都に迎賓館など必要ありません。こういう勘違いは、東京都が「首都」であるという誤解から生じるものですが、東京には明治時代の建物を復元しなくとも都市外交に資するだけの高級ホテルがたくさんあります。

 歴代知事と同様、舛添知事は都知事を「首都のリーダー」と勘違いしていたのです。

 もう一つが就任中に幾度も美術館巡りを楽しんでいたことです。『都知事失格』で、舛添氏は「美術に通じていなければ外交はできない」と主張していますが、知事一人が美術に通じていても都市外交などできません。国際情勢やイデオロギーを乗り越えて友情を育むには、異文化を受け入れ、平和を希求する心が首長のみならず、議会人や職員にもなければなりません。

 石原知事は都市外交に私情を挟む人でした。だから平気で〝なんちゃって領土紛争〟を始めてしまったのです。

 舛添知事が都市外交に力を入れたいと思うなら、もっとすべきことがあったはずです。自分だけ美術鑑賞に浸って、いったい何が得られるのでしょうか。

 もう都庁を追われてしまった舛添氏に何を言っても仕方ありません。都知事選で様々な候補者が自由闊達に政策や公約を打ち出しています。私は、どの政党の擁立した候補者にもお願いしたいのです。この都政は、〝石原的都政〟からの転換なしには前には進めません。ポピュリズムの力を借りて、自分が東京で何かをしているようなパフォーマンスを都民に発信しているだけの都政では、都民の生活を向上させることはできないのです。都政における真の対立軸は、〝石原的都政〟の終焉にあります。

◆参考文献

『都知事失格』(舛添要一)
『都政新報』連載「東京が動き出す 舛添都政の課題」2014年2月18日号~3月7日号)
『都政新報』2014年2月18日号
『都政新報』2019年2月15日号「『平成』の地方自治 橋本大二郎氏に聞く・上」

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