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飽きっぽいということは。

過去手帳好きを自称してInstagramをやっていたし、今のnoteをはじめた時もプロフィール欄にそう書いた私だけど、最近はまったく手帳のたぐいを開かない日が多くなってきた。
飽きたというよりは、開かなくても大丈夫になってきたカンジ。私は手帳好きなんだから…!みたいに思って頑張っていた日々が少なからずあったことを自覚した。

2人目出産するまで、気になることを手当たり次第にやっていた。音楽とかバイクとかボディピアスとか服とかetc。でもこれが趣味だ!と思っても、どこか一線引いてのめり込んでいるような。そこそこ知識を得たレベルでフェードアウトしちゃう。

そこに引け目…とまではいかないけれど、あんなに情熱を持ってやっていたのに飽きちゃうなんてどういうこと!?と、自分でも理解しがたい感覚になっていたのだろう。

ちょうど手帳にハマった時にInstagramにハマっていたから、私は手帳好きを自称していただけなのかもしれない。(時期が違えばディズニーランド系のInstagramとかやっていたのかも。)
色々な人の手帳やノートを見てたくさん刺激を受けたけど、その手法が自分の生活にはフィットしないことも薄々勘づいたりしていた。
それでも没頭できる趣味を手放したくなくって、しがみついてたんだと思う。


実は一貫性はないんだけれど、『アンテナに引っかかったことを飽きるまでやる』というのが、私の趣味であり、やりたいことなのかもしれない。


今は編み物にハマっていて、昨日は深夜2時までせっせと編んでいた。先月まで糸のたぐいは残しておくか否か、迷う対象だったのに。
ハマっている時とそうでない時の波が激しい。今は削除した、過去のnoteもそう。ハイペースに更新できる時とまったく書く気が起きない時があった。
だけども世間は『毎日更新しよう』とか『習慣づけをしよう』とか、一定のペースで生きることを勧めてくる。気がする。それができない自分に焦りを感じるのだ、だからなんでもない普通の人止まりなんだぞ、と言われているようで。

あとスマートに生きてる人たちは『過去の趣味のものは処分しましょう、一年触らなかった物はもう触らないと思いますよ。必要になったらまた買いましょう』っていうよね。エコとかそういう観点でも物をあまり消費しないという生活には憧れるんだけれども、捨ててまた買ってという行為はスマートではないよな、なんて思ったり。

案外自分はどこかの誰かの声を拾いすぎていたのかもしれないなぁ。
今はコレが趣味、のマイブームの波に、ただただ楽しみきるまで乗っていればいいだけなんだ。
飽きっぽいことの何が悪いことなんだろうか。もうコレについては充分楽しんだから大丈夫、って、自分の感性にしたがって生きている。サイコーじゃないか!


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