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人との出会いが人生を切り開く。迷ったら、人と会え。『picki』に僕が込めた想い

はじめまして。鈴木 昭広(すずき あきひろ)と言います。

現在、オリジナルのアパレルブランドを立ち上げたいと望む、個人のクリエイターやインフルエンサーが増えています。

「デザインはもちろん、使用する素材や工場の選定までこだわり、自分の個性をファッションで表現したい」

そんな本気でものづくりをしたい人達の、オリジナルファッションブランドの立ち上げから販売までを一貫してサポートする、『picki(ピッキー)』というファッションD2Cプラットフォームを僕らは立ち上げました。

ファッションアイテムの企画・生産・物流にとどまらず、pickiが展開するECサイトやオウンドメディアでは、つくり手の想いやこだわり、ファッションアイテムが出来るまでの生産過程など、ブランドの裏側にあるストーリーをユーザー(ファン)にダイレクトに届けていきます。

https://picki.jp

pickiを立ち上げた根底にある僕の想いは、ふたつです。

ひとつめは、インフルエンサーやクリエイターが“自分の好き”を大切にし続けられる世の中を創りたいということ。

インフルエンサーやクリエイターが、その人独自の尖った個性や世界観を大切にし続けるために必要なのは、何でしょうか?

それは、そのクリエイターを応援し続ける人(ファン)とお金がクリエイターに入ってくる仕組みです。

Youtubeが動画配信を通じて、ファンと対価を獲得する仕組みを与えて、好きなことで生きていけるクリエイター(Youtuber)を増やしたように、pickiはファッション分野に高い関心のあるクリエイターが自分らしさを詰め込んだオリジナルブランドを通じて生きていける仕組みをつくっていきます。

ふたつめは、pickiをプラットフォームとして、来訪者(ユーザー)に、様々な個性的なクリエイターやインフルエンサーとの出会いを提供し、人生を変える瞬間を生み出す場に育てたいということ。

なぜなら、人生を切り開くのは、自分の視野を広げてくれたり、価値観を揺さぶってくれる、刺激的な人との出会いの積み重ねだと思っているからです。

僕は現在33歳ですが、10代の頃に読んだ堀江さんの著書『稼ぐが勝ち ゼロから100億、ボクのやり方』に強く影響を受けて、20歳の頃から「自分も堀江さんのように起業をして、大きな事業を展開したい」と思っていました。

ただ、なかなか上手くはいきませんでした。

僕は深く考えるより、まずは行動という人間です。「just do it」というか、チャンスがありそうだと感じたら、後先考えず行動に走ってしまう。そのせいで、失敗したことは数え切れないほどあります。借金を背負ったり、ビジネスパートナーから裏切れたこともありました。

また、「結局、自分は何がしたいのか?」と悩んだ時期もありました。自分が本気で取り組みたいと思うことが何なのかわからない。自分は、ただお金を稼いで、有名になりたいだけの奴なのか? そう、自分のことを冷めた目で眺めていた時もあります。

そんな僕が、pickiという本当に心からやりたい事業を見つけることができたのは、刺激的な人々との出会いの積み重ねがあったからです。

「個性的な人たちとの出会いが、人生を切り開く。自分に迷ったら、人と会え」

これが僕の生きる指針なのかもしれません。ここからは僕の生い立ちを紹介しながら、僕がpickiに辿り着くまでを紹介させてください。

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お金を稼げる奴がえらい?

僕の生まれは大阪。父も母も自営業を営み、父は骨董商、母は百貨店でアパレル販売をする商売人の家に生まれました。

中学の時に勉強を教えてくれた家庭教師の先生が、金髪にバイクという個性的なお兄さんだったのですが、その先生から教えられた漫画『カイジ』や『銀と金』が僕に大きな影響をもたらしました。商売人の両親の血ゆえかもしれませんが、「お金を稼げる奴がえらい」という価値観が僕の中に芽生えたのです。

そこで、家庭教師の先生から教えてもらったヤフオクで、安く仕入れて売るというお金稼ぎを始めました。売れ筋は遊戯王カード。近所の子供はネット上でのカードの値打ちを知らないので安く仕入れることができました。中学生にして数十万円の貯金をつくり、漫画で書いてあることを実体験している感覚に興奮を覚えました。

そんな幼少期を過ごしていた僕ですが、高校に入る頃に両親が離婚をしました。母は百貨店の仕事でかなりの額を稼いでいたのですが、海外での投資話の詐欺にあい、多くの借金を抱えてしまったのです。それにより夫婦仲に亀裂が走り、母は韓国に帰ることになりました。

僕は父がいる大阪で暮らすことになったのですが、家庭のゴタゴタを目の当たりにし、高校時代は非行に走ってしまいました。そんな状態でしたから、卒業後の行き先もありません。

そんな僕を見かねて、韓国にいる母から、韓国に来てみないかと誘われました。僕も特にやりたいことはなかったですし、地元の先輩達や危ない人達とのしがらみから離れたいと思い、逃げるような気持ちで韓国に渡ることにしたのです。


ひたすらに刺激を求め、ソウルからニューヨークへ。

韓国ではソウルにある韓国語のランゲージスクールに約2年間通いました。そこでの経験が僕の人生を大きく変えました。

そのスクールには世界各国から様々な人がきていました。白人もいれば、黒人もいて、アジアの人もいる。ずっと大阪で日本人に囲まれて暮らしていた僕は海外の人とのコミュニケーションに戸惑いました。自分とは全く違う人間だという目で彼らを見ていたのです。

しかし、韓国語を学び、お互いにコミュニケーションが取れるようになると、その先入観は払拭されていきました。自分と同じように将来のことや、人間関係のこと、恋愛のことに悩みをもつ同じ人間なんだとわかったのです。当たり前の話に聞こえるかもしれませんが、当時の僕にはとても新鮮でした。

同時に、海外の人たちは自分とは違うバックボーンを持っていて、価値観が重なり合うところもあれば、全く違うところもあると気づき、その違いが面白いと感じました。世界中にいる自分とは違う価値観を持つ人に、もっと出会いたいという気持ちが僕の中で強くなっていきました。

また、韓国で刺激のある生活を続けている中で、中学生の頃に抱いていた「お金を稼ぐ」ことへの関心も復活していきます。その大きな要因となったのが、堀江さんの著書『稼ぐが勝ち』です。堀江さんの考え方に触れて、自分もビジネスで大きなことを成し遂げたいという思いがむくむくと自分の中に湧き上がってきました。

そして、僕は考えました。世界中から様々な人が集まって、世界のビジネスの中心地とは、どこだろう…? その結果、ニューヨークで自分の視野を広げたいと考え始めたのです。

韓国での生活費やスクールに通う授業料は母が出してくれていました。母は韓国に戻った後も日本向けアパレル製造販売の自営業をしていました。まだ借金があるにも関わらず、僕のためにお金を出し続けてくれていたのです。

ただ、流石にニューヨークは生活コストも学費も高いので、流石に母から反対されると思っていたのですが、ダメもとで相談して見ると、即答で「行ってこい!」でした。すごい母親だと思いました。母には頭が下がる思いでいっぱいです。

ニューヨークに渡り、シェアルームに住み、現地のランゲージスクールに通う日々が始まりました。そこでの暮らしは、予想以上に刺激的な日々でした。

様々な夢を持つ人が集まっていて、これまでの僕には全くなかった視点をたくさん与えてくれました。例えば、スクールから家までの道を歩いていても、建築家を目指す友人は建物や街の景観に建築的視点で語ってくるし、ヨガのインストラクターを目指す友人はすれ違う人の骨格や姿勢について語ってくる。同じ道を歩いているのに見ているのに、人によって視点が全く違う。視点を変えるだけで、こんなに新鮮な気持ちになれるのかと驚きました。

ただ、やはりニューヨークでの生活費は高く、母から「そろそろ韓国に戻って来て欲しい」という連絡が届くようになります。さすがにこれ以上は母に迷惑をかけられません。

考え抜いた結果、韓国ではなく、次は中国に行こうと決めました。「これからは中国の時代」とメディアが喧騒し、チャイナドリームという言葉がニューヨークの人たちの間でも飛び回っていたのです。好奇心が人一倍強い僕は、中国への興味が段々と強くなっていました。

中国であれば生活費が安く抑えられることもあり、ニューヨークの次は北京に渡ることになりました。


自分には何もない…。突きつけられた事実。

北京に来て、最初の1年半は北京のランゲージスクールに通い、中国語の勉強をしていました。当時は北京オリンピック前で、中国国内や海外から面白い人たちが北京に集まっていました。

そこで、長年の夢であった起業を中国で実現したいと思うようになります。チャイナドリームをこの手に掴んでやろうと思ったのです。

スクールを卒業してからの半年間は、現地の経営者に会ったり、事業アイデアを集めたりと、起業の準備に費やしました。ただ、準備をすればするほど、中国で日本人が起業をすることの難しさを痛感していきました。

中国で起業するには現地企業と資本を半分ずつにする必要があり、パートナーの存在が求められます。信頼できるパートナー探しが想像以上に困難で、実はパートナー候補の企業から騙されたこともあります。

また、中国人と一緒の土俵で戦っても絶対に勝てません。彼らの方がローカルの文化に圧倒的に精通しているし、人件費の感覚が全く違います。僕だからこそできることをやらないと勝負にならない。でも、それが全く見つかりませんでした。僕ができることは日本語と韓国語が喋れるくらい。それだと旅行ガイドくらいしかできません。

これまでソウル・ニューヨーク・北京で、様々な人と出会い刺激を受けまくってきた僕ですが、はじめて「自分の価値とは何か?」を真剣に考え始めました。

そして導いた答えは、自分には何もないということです。

言語ができたとしても、ビジネスのことは何もわかない。そもそも、会社で働いた経験すらない…。このことに愕然とした僕は、韓国で母が営む会社を手伝いながら、ビジネスを学ぶことに決めました。

韓国に戻った僕は、母の日本向けアパレル製造販売の会社に加え、韓国の他のアパレル製造販売の会社にも就職し、そこでビジネスの勉強をさせてもらいました。そして、25歳の時に、ついに自分の会社を起業したのです。

僕がやっていたのは、日本でファッションブランドを展開する企業から発注を受け、韓国の質の良いアパレルメーカーで洋服をつくり納品するという受託生産のビジネスです。当時は多くの日本企業が韓国でアパレルを生産をする時代だったので、現地の質の良い縫製工場との繋がりが強みになる時代でした。起業してすぐに利益が出始め、ようやく事業家としての第一歩が踏み出せたのです。

しかし喜びも束の間。アベノミクスの発動により、一気に円安の流れが進み、為替の影響でキャッシュフローがガタガタになりました。当時の僕の為替に対する知識は甘く、円安がこんなにインパクトがあるものだとは全く予期していなかったのです。すぐに内部留保が吹き飛び、借金生活に突入しました。

そうして28歳の時に、借金を返すために、長年離れていた日本に戻ることを決意します。日本企業を相手にビジネスをしていたこともあり、東京に仕事の拠点を移すことにしたのです。


世界を旅をしながら、自分を知る。

東京に拠点を移してからは、借金を返すために、粛々とアパレルの受託生産のビジネスを続けていました。借金を返すのに1年半ほどかかりました。

しかし、当時の僕には新鮮な発見がありました。それは東京いう街が凄まじく面白いということです。それまで海外に約10年間住み、ニューヨークや北京などの刺激が多い街で暮らしていた僕は、日本の街なんてたいして面白くないだろうとたかをくくっていたのです。それが、東京に暮らし始めると、見る見るうちに東京の魅力にのめり込んでいったのです。

何より凄いと思ったのが、東京には面白い人たちがたくさんいて、会おうと思えば会えるということです。

僕は20歳の頃から堀江さんの本を読んで育っていましたが、堀江さんにも会おうと思えば会える。当時はちょうど堀江さんが自分のサロンを立ち上げたタイミングで、僕はサロンにすぐに入会しました。

今でも忘れられないのが、サロンの合宿です。平日の一泊二日で参加費は10万円。まだサロン全体の人数も少なかったので、参加人数は合計で20人〜30人くらいの少人数。そのなかに堀江さんはもちろん、マイクロソフトの成毛さんや、ひろゆきさんがきていました。そんな人たちと朝までお酒を飲みながら語り明かす。その体験が僕にとっては最高に刺激的で、堀江さんたちと同じ土俵に立ちたいという想いが再燃してきたのです。

そこで、世界で勝負ができるビジネスアイディアを探すために、世界中の起業家に会いにいく旅にでることにしました。イスラエル、パリ、ベルリン、南アフリカ…、結果的に1年で50カ国を訪ねました。

わかったのが、世界と戦うには日本の良いところをだしていくしかないということです。そして、日本のものづくりへのきめ細やかな姿勢は各国で非常に評価されているということでした。

また、世界を旅しているなかで、「D2C(ダイレクト・トゥ・コンシューマー)」というモデルがアメリカを中心に台頭してきていることも知ります。D2Cとは、メーカーやブランドが自らECサイトを構築するなどして直接消費者とつながり、ファンを増やしながら販路を拡大するモデルです。

大量生産されたもののを買う時代から、自分が本当に良いと思うものを目利きして購入する時代へと、消費の在り方が変わりつつあることを肌で感じました。そして、このD2Cの流れは確実に日本にも来るだろうと思いました。

それと世界を旅するなかで、僕は自分自身についてもすごく考えました。旅をする人ならわかると思うのですが、旅は移動の連続でバスや列車に乗っている時間が長いんです。自分は何に喜びを感じて、人生に何を求めているのか…? 窓の外に流れる異国の風景を眺めながら、そんなことをずっと考えていました。


そこで僕は、自分の視点や価値観を揺さぶってくれる個性的な人たちとの出会いに大きな喜びを感じる人間だということに行き着きました。人と出会うことにより、自分を前に進ませようとする。その繰り返しが僕の人生なのだと気づいたのです。

20代の僕はソウル・ニューヨーク・北京・東京と各地を転々としましたが、その原動力は全て、僕を前に進めさせる刺激的な人たちとの出会いを求めてのことです。

「個性的な人たちとの出会いが、人生を切り開く。自分に迷ったら、人と会え」

これが人生の行動指針になっていることに気づいた僕は、これからもまだ見ぬ個性的な人とたくさん出会いたいと思うと同時に、彼らが持っている個性を応援していくビジネスをしていきたいと考えるようになったのです。


クリエイターの独自の世界をパブリッシュする

こうして辿り着いた起業アイディアが、個性的なインフルエンサーやクリエイターが“自分の好き”を大切にし続けられる世の中を創る「picki」です。

世間ではD2Cの流れがきています。個人のインフルエンサーやクリエイターもオリジナルファッションブランドをつくりたがっているし、彼らを支持するファン(フォロワー)もそれを待ち望んでいます。

だけど、彼らはファッションの生産に関する知識やノウハウはありません。また、ものづくりにおいて信頼できる工場の存在は何よりも欠かせません。

僕はアパレルの受託生産をしていたので、ファッションに関する企画から生産・販売・物流までの知識や経験、そして質の高い縫製ファクトリーや生地メーカーとの繋がりを持っています。

彼らが持っている独自の世界観や個性をファッションという形で表現する時のパートナーになれるのではないかと思いました。

そして、「picki」ではメディアでの編集経験があるメンバーも加わっていて、ものづくりの裏側にあるストーリーをコンテンツとしてオウンドメディアで発信していきます。

インフルエンサーやクリエイターの頭にある独自の世界を、ファッションという形で世の中に届けていく最大限のサポートをしていく。これが僕たちが役割です。

そんなことを考えていた時に、コルクの佐渡島さんが、「編集とは、作家の価値を最大化するために、作家の頭の中にある独自の世界をパブリッシュすることだ」と発言しているのを聞き、自分と考えていることが同じだと思いました。

コルクでは作家の頭の中にある世界をファンに届けるために、漫画や小説といったものだけでなく、グッズやイベントなど様々な形態で世界をパブリッシュしています。佐渡島さんから編集について学びたいと思いから、僕はコルクラボに入りました。そこで編集だけでなく、クリエイターとファンを繋ぐコミュニティについても多くを学びました。

コルクラボでは、素晴らしい仲間との出会いもありました。それは、僕と一緒にpickiの創業メンバーとしてジョインしてくれた松池 恭佑駒井 大毅です。ふたりともコルクラボのメンバーなのですが、松池はサイバーエージェント、駒井はDeNAで経験を積む優秀なふたりです。そんなふたりが、pickiが掲げている想いに共感して、チームに加わってくれたのです。
また、松池の友人で元パーソルキャリアの山口裕生も同じくpickiの想いに共感し、ジョインしてくれました。(3人の想いを込めたnoteを下記に貼ってるので是非見て下さい)

そして、佐渡島さんからは、コルクラボのメンバーである僕たちが挑戦するということもあり、コルクからpickiに資金を入れてくれました。また、こうして佐渡島さんのnoteで紹介してもらったり、事業についてサポートしてもらったりと、様々な角度から応援してもらっています。

佐渡島さんだけでなく、僕たちの夢を乗せたpickiは、ありがたいことに様々な人から応援をいただいています。ベンチャーキャピタルとして名高い、サイバーエージェント・キャピタル、Coral Capital 、VOYAGE VENTURESの3社からも総額約6,000万円の資金を入れていただきました。資金を入れるだけでなく、例えばサイバーエージェントキャピタルの北尾さんには、弊社のパートナー縫製工場にまで一緒に足を運んでいただいたり、土日問わず相談にのっていただいたり、資金面だけでなく、夢を一緒に賭けてもらっていると感じています。


軸が見つからないからといって、立ち止まってはいけない。

まだ、pickiは立ち上がったばかりです。

pickiは英語のpickyが由来で、「he is picky about coffee」 を日本語訳すると、「彼はコーヒーについてギャーギャーとうるさい」みたいな意味です。でも裏を返すと、それだけこだわりがあるということです。そんなこだわりを持った人たちが集まるような場所にしたいと思ってつけました。

また、pickyの最後をiに変えているのは、その中から自分(i)にピッタリなこだわりのある人やファッションブランドと出会って欲しいという想いを入れています。

現在は、「自分の軸で生きろ」「自分をブランド化しろ」といったような言葉が飛びかっています。それを否定するつもりはありません。全くその通りだと思うからです。

でも、自分の軸を見つけるのは、すごく難しいです。ここまで読んでいただいたように、僕も自分の軸を見つけるまでに、とても時間がかかりました。

だけど、軸がまだ見つからない人は、そこで立ち止まるのでなく、自分に刺激を与えてくれる人たちと出会っていくことが大切なのだと思います。

「個性的な人たちとの出会いが、人生を切り開く。自分に迷ったら、人と会え」

繰り返しになりますが、これが僕にとっての人生の座右の銘です。

pickiによって、個性的な人たちが、いつまでも“自分の好き”を大切にし続けれられる。

そして、pickiが場となり、個性的な人と出会える接点をつくり、人生を変える出会いを生み出していく。

是非、これからのpickiの挑戦を応援していただけると嬉しいです。

この想いに共感してもらえた方は下記より、ぜひ一度ご連絡ください!

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