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行く末(5) - 男性学を紐解く-5-
LGBTQを筆頭に、性の多様性が認められるようになってきたこの時代に、何故男性学なのか、と思われるかもしれない。そんなの時代遅れじゃね?と。
いや、待って。一番変わらなきゃならないのは、男性学が対象としている「普通の男性」だから。そういう人たちがマジョリティを占めている現状へのオルタナティブとして、男性の気負わない生き方考えているのだ。
そして、それが全人類の生きやすさに繋がると信じているのだ。
なぜ、男性自身が変わる必要があるのか。理由は明白だ。既得権益に一番しがみついているからだ。それが他者(特に社会的弱者)を抑圧しているからだ。
男性というだけで履くことができた高い下駄を、一度脱いでみようよ、という呼びかけだ。
ではなぜ、男性自身が変わることができないのだろう。何がそれを困難にさせているのだろう。
『<40男>はなぜ嫌われるか』で田中はこう述べている。
40男にとって、ハードルが二つある。一つは、億劫で新しいことが始められないという問題だ。(中略)
もう一つは、せっかくジムに通ったり、サークルに入ったりしても馴染めないという問題である。これについては、当然のこととして想定しておかなければならない。
男は総じて、歳を重ねるほどに新しい友人を作れなくなる傾向があることは、男であれば同意いただけると思う。初対面の女性同士が、(表面的かも知れないが)あーだこーだ会話が弾んでいるのを見るにつけ、ちょっと羨ましくなる。
これが男性同士だと、「始めまして」「始めまして」「…」「…」終了…。
・男性は上手く距離を縮められない
一方で、男性は講座(註:男性をテーマとした市民講座など)が終わったとたんに、蜘蛛の子を散らすように帰る。地域の仲間作りがテーマの時でさえ、同じ事態が起こる。講座の最中に、さかんに頷いていたのは何だったのかと問いただしてみたいほどだ。
「ちょっとこの後、コーヒーでも飲みに行きませんか」。地域に知り合いを増やしたくて参加しているのだから、この一言を発すれば簡単に友だちになれるはずである。しかし、自分から誘うのは癪に障るのだろう。自分からというのが何か負けたようで気に入らないのだ。かといってあからさまに誘われるのを待つわけにはいかない。だから一目散に会場を後にする。
この気持ちはよく分かる。実は僕もそうだ。新しい人間関係を築くのが年々難しくなる。
なぜ、そうなってしまうのか。ここには、男性ならではのマウントのとり方が関係している。
それについては、次回以降考えていこうと思う。
それにしても、ではある。男性も楽に生きようよ、という例として、この本の中で、キングオブコメディの高橋の例を挙げたのはあまりにも間が悪すぎた。
モノノフと呼ばれるももいろクローバーZを応援する中高年男性の中で神とあがめられる人物として高橋を上げ、その応援について田中はこう書く。
「彼に対して「一八歳未満の少女をいやらしい目で見やがって」などと誰が言えるだろうか。高橋は純粋に夢に向かって努力を続ける少女たちを応援し、勇気をもらっているのである。中高年男性が、若い女の子に関心を持つこと自体が悪いのではない。性的な欲望の対象にすることが間違っているのだ。未成年のアイドルを応援する40男は、神である高橋のこうした姿勢を手本にして純粋なファンとして行動しよう。」
この本の出版が2015年8月で、高橋の逮捕が2015年12月。逮捕容疑があまりにも弁護のしようがなく、しかもここで田中が挙げた内容を根底からひっくり返すような事件だったのは、不運として単純に片づけられない問題を孕んでいるようにも思う。
蛇足だが、高橋は僕の小学校の同級生である。家も近所だった。同じクラスになったことはなかったが何回か遊んだことはある。中学は別で、その後の消息は全く知らなかった。コメディアンになったことも知らず、逮捕されたあいつタカケンだよ、と小学校時代の友達から言われて初めて思い出したくらいだ。
罪は消えないが、償えるし、許される。どうか、テレビ出演は難しいかもしれないが、再起を図ってほしいと願う次第である。
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