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でき太くん三澤のひとりごと その136

◇ 私の過去 #3


前回のひとりごとでは、「自己像」が変わると人は成長できるというテーマについて書いてみました。そして、子どもの「自己像」には、私たちまわりにいる大人の意識が影響しているとも書きました。

私はこれまで数多くのお子さんの学習をサポートしてきました。
そこでいつも感じることは、子どもが持っている「自己像」の影響力についてです。

いわゆる難関校を受験することを目標としているようなお子さんの多くは、「自己像」が肯定的で、自分は何をやってもできる、自分は優れている、自分は選ばれし人間だというくらいのイメージを持っています。

ですから、何をやってもできる。
たとえすぐにできなかったとしても、「自分にはできるはず!」という気持ちで問題に向き合うことができます。
そういう意識で物事に向かうのですから、必然的に「できた!」という成功体験をすることができます。そして、この成功体験が「自己像」をさらに肯定的なものへと成長させていくのです。

逆に「自己像」が否定的なお子さんは、やる気もなく、ダラダラと物事に取り組み、「できない」ことを前提に取り組んでいることが多くなりますから、何をやっても思うような結果はでません。

その結果を見て、まわりにいる大人はわが子の将来が不安になります。
そして日々ダラダラとやる気のないわが子を見て苛立ち、ときには怒りという感情の刃をわが子に向けてしまうこともあります。子どもが自分の存在根拠を見失ってしまうほど怒鳴りつけてしまうことさえあるように思います。

このような意識がいつも渦巻いていると、子どもが生活する家庭環境の土台は、不安、心配、怒り、怠惰、不満といったマイナス的な意識となります。このような土台があると、子どもはなかなか前向きに学習に取り組むことができなくなってきます。そうなると、必然的に自己像にもなかなか変化は出てきません。こういう悪循環に陥ってしまうケースは多いように思います。

ところで世間には、才能、センス、天才というような、いわゆる平均値よりも優れた子を表現する言葉があります。私はときどき、これは本当に人間をしっかり探究した上での真実の言葉なのだろうかと考えてしまうことがあるのです。

確かに小学3年生で中学2年生の問題ができてしまう子もいます。
しかしこの子を「天才」というひと言で片付けてしまっていいのでしょうか。

私がそのように思うのは、「自己像」が変化するまでは、いわゆる普通のどこにでもいるような子が、才能があるといわれたお子さんのような反応をみせたり、天才的ともいえる発想をしたり、まるで別人のように変わり、成長していく姿を見てきたからです。

私もかつては自他共に認める「できない子」でした。
ですが今は、「できる子」が学習するための学習材開発にも携わり、実際「できる子」はそれを学び難関校に合格しています。
もし本当に人間の能力が生まれつき決まっているものであれば、私が学習材開発に携わり、教育の仕事をすることはなかったのではないでしょうか。

今、私が書いていることに異論がある方はもちろんいらっしゃると思います。
しかし「自己像」が劇的に変化したことで、まるで別人のように成長していった子どもたちを見るたびに、本当に才能とか、天才とか、センスといったものは存在するのかと、いつも疑問に思うのです。
人間は、自分という存在をどのようにイメージしているか、子どものまわりにいる大人がどのように子どもをイメージしているかで、いかようにも変化するそもそも摩訶不思議な存在なのではないでしょうか。

私がこの仕事を選び、そして人間に深い関心を抱くようになったのは、私自身が変わったことも要因のひとつではありますが、10代のころに経験した友人たちの死の影響が強いのではないかとも感じています。

私はあるとき後輩からこんなことを言われたことがあります。

「先輩の学年は本当に亡くなる人が多いですよね」

確かに、そう言いたくなるのもわかります。

私を塾に誘ってくれた恩人とも言える友人は、高校1年生のときに部活の過度な練習(シゴキ)が原因で亡くなりました。

昭和の時代は、練習中に水を飲むというのは御法度という雰囲気がありました。
夏の暑い最中。体育館の蒸し風呂のような環境の中で、水を飲むことも許されず、過度な練習を継続したことで、私の友人は意識を失い、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
きっと友人はやりたいこと、将来の希望などたくさんあったと思います。しかし、その想いをとげることなく、わずか16年という短い人生を終えました。

さらに、私と昭和のストロングスタイルの塾で、共にとことん勉強をしてきた友人も、中学浪人してまで受験した高校の校風がなかなか合わずに、自害してしました。だれにも相談できず、本当に苦しかったのだと思います。

加えて、あと2人、私の友人は亡くなっています。

私は友人が亡くなるたびに、

人間とは何なんだ。

10代で人生が終わるとは何なんだ。
なんでわずか10代で亡くならなければならないのだ。
何も悪いことはしていないのに、、、

なんで私たちは生きているのだ。

という、その当時の私では解決できないような問題がいつも頭をよぎっていました。
私が普通の仕事では飽き足らず、常に人間を対象とした教育の仕事に携わるのは、まさにここにルーツがあると感じています。

自分の意志や計らいを超えて命はこの世に誕生し、そして自分の意志や計らいを超えて終わる命。
そしてその命がもたらず能力は、「自己像」によって大きく変わる。

この課題をとことん追究していきたい。
そして、今の私がわかっている範囲のことを多くの方に共有していきたい。

人間の存在や「自己像」というものの影響を追い求める中で、私がたどり着いたことのひとつに「お母さんの存在」があります。

子どもはだれしも必ずお母さんの存在によって、この世に生まれます。もちろん、お父さんも関係していますが、この世に誕生する物理的な最初のなスタートラインである出産はお母さんに委ねられています。妊娠しても、お母さんが産まなければ子どもはこの世に命として存在することができません。

子どもにとってのお母さんの存在。

これはまさに命のスタートであり、子どもにとってお母さんは太陽のような存在なのではないだろうか。これまで多くのお子さんの学習をサポートし、そして数多くのお子さんが変化し、成長する様子を見ていると、私はそう感じずにはいられないのです。なぜなら、子どもの変化、成長のきっかけの多くがいつもお母さんであるからです。

生きていると、曇りの日もあれば、嵐の日もある。
しかし、いつも太陽は存在していて、必ず私たちを照らし、たくさんの恵みを与えてくれる。
お母さんは、そういう存在なのではないか。

子どもが成長し、幼稚園や学校に通い始め、少しずつ社会に出ていくとき。
きっと様々な問題が出てくると思います。
そういうとき、太陽がいつも自分を照らしていてくれたら、子どもはきっと前向きに歩んでいくことができるのではないでしょうか。太陽はいつも平等に、差別なく光を照らすように、お母さんはわが子に無償の愛を注ぐことできる。

子育てをしていると、必ず迷うこと、不安になること、心配になることがあると思います。しかしそういうときでも、「私の子どもならだいじょうぶ!」と、疑いもなく信じてくれている太陽があれば、子どもはしっかり自分の人生を歩んでいけるのではないだろうか。

世の中には、子育てに対する不安や心配を解決すると謳った様々なノウハウ本がありますが、どのような状況下においても、太陽となるお母さんがわが子を信じ続けることができれば、それが最高の「自己像」の育成や、様々な問題解決につながるのではないかと思うのです。

お母さん、あなたは存在しているだけで、子どもにとっては太陽なのです。
どうか子どもに、いつも光を照らし続けてあげてください。

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