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墜落現場へ。

墜落事故から半年ちょっとが経ちました。
墜落現場へ行ってきました。
写真は墜落現場から翼が潰れたであろう位置を見上げた写真です。
確かにあの時、あの瞬間には私を墜落させるほどの乱気流があった。でも乱気流は目には見えないですからね。。。今見上げると、、、優しい空なんだよな。。。

現場へ行ったら、取り乱してしまうかもしれない、怖い、、と思ってしまいました。だからなかなか近づけませんでした。実は数日前から墜落現場に行った自分を想像して、何度か涙していたんです。。。でも勇気を出して行ってみました。

思ったより、冷静に現場を見ることが出来ました。

落ちた場所は石やコンクリートの角が沢山ある場所。自分が落ちた平坦なスペースは想像していたよりもほんのちょっとだけ広かったです。でもその周りは思っていた以上に段差や角が沢山ありました。

落下位置が30cm上にズレていたら、後頭部を角にぶつけていたはずです。即死か、重篤な脳障害を負っていたはずです。そして角があったのは上側だけじゃありません。左側にも、右側にもありました。落下位置がズレていたり、落ちる時の体の角度が違っていたら、その角にぶつかっていたはずです。やはり私は「ここしかない」という場所に落ちたみたいです。もし落下場所が違っていたら、、、想像するだけでも恐ろしい。

「よくここに落ちることができたな。。。本当に奇跡だったんだな。。。

ただただ、そう思いました。

墜落現場に行った前後で、事故の時にお世話になった方々ともお会いすることができました。皆さん暖かく受け入れてくださいました。本当にありがとうございました。

お会いできた人達の中には事故の時に偶然現場に居合わせた医師の方もいらっしゃいました。お話して色々なことがわかりました。その方は月1ペースくらいでそこに来る人だったらしいです。奇跡的に墜落した日とその方がくる日程が重なっていたのは本当に運がよかったです。

そして私の怪我のレントゲン写真を見せたのですが、半身不随になるかならないかは本当に紙一重だったみたいです。怪我としては第一、第二腰椎の破裂骨折で、激しく潰れていたのは第二腰椎です。もし第二ではなく、第一腰椎が激しく潰れていたら、神経の位置の関係でほぼ確実に半身不随になっていただろうとのことでした。

生きているだけでも奇跡。
それなのに、後遺症は主に左足の痺れだけですんだこと。体の運動機能は95%以上元に戻ると言われていること。

墜落の状況から考えると、一体どれだけの奇跡が重なったんだと改めて考えさせられました。でも、、、本当のことをいうと、気持ちはすごく複雑です。

もしこの世界に神様がいたとしましょう。
あんな絶望的な位置と高度で私にいたずらをした悪魔のような神様がいるはずです。そして、「そうはさせない、彼は生きるべきだ」と守ってくれたいい神様もいるはずなんです。
その2人の神様の間でせめぎ合いがあったはずです。その結果、幸運にも私はギリギリの所で守られたということになります。

「いや、だったらそのせめぎ合いになぜ俺を巻き込んだんだ。ほかでやってくれ。その後俺はどれだけ辛かったか、、、苦しかったか。。。そしてその苦しみはまだずっと続いてるんだよ。。。ふざけるな。。。。」

そう思ってしまいます。そう思うのは自然ですよね。。。。?

ある程度体が戻ってきて、仕事復帰できた今でも、、、一人で歩いている時なんかに無性に悔しさ、悲しさ、やるせなさ、寂しさ、そういうものに襲われて涙が止まらなくなるときがあります。どうしてもそういう感情は押し寄せてきてしまうんです。そして、そういう感情に襲われた時、どうしても今回の事故の意味を考えてしまいます。

重大な何かが起きた時、人間というのはどうしてもその意味というのを考えてしまいます。自分の場合は墜落したのがどうして自分なのか。あんな絶望的な状況だったのになぜ生きていたのか。いや、生かされたのか。しかも、深刻な後遺症もなかった。これだけの絶望と幸運をなぜ俺に背負わせるの?心ではどうしてもそうやって意味を探してしまいます。

多分、意味なんかないんだと思います。そこにあるのは確率の話だけ。
いろんな悪い要素の確率が重なってしまい、翼が大潰れして墜落してしまった。その直後、幸運が重なって生きていた。大怪我ではあったけれど、深刻な後遺症は残らなかった。

そう、世の中は不公平なんだと思います。
運悪く事故に遭い、悲惨な経験をする人はいます。その逆で運良く事故を免れる人もいます。人とかけ離れた恵まれた才能を持って生まれてくる人もいます。その逆を背負う人もいます。幸運が重なる人もいます。不運が重なる人もいます。悔しいし、やるせないけど、そうなんです。

それでも、そんな不公平で理不尽なこの世界を、生きていくしかない。
向き合っていくしかないんだと思います。

だからたぶん、不幸なことが起きてしまった後、その意味を探して立ち止まってしまうのが、選択としては一番良くないんだと思います。

そう。。。進んでいくしかない。
ちゃんと進んでいるか、それが大切なんだと思います。

その観点から見ていくと、事故自体に意味はなけれど、「今回の事故をどう解釈して前に進んでいくか」は全部自分次第なんだと思います。言い方を変えると「今回を事故をどう解釈すれば前に進もうと思えるか」ということになります。

身に起きる出来事に意味はないと言っておきながら、矛盾していると思われる方もいるかもしれません。言いたいのは、

その出来事に「本質的な意味」はない。だけど自分で意味を作りだすことはできる。どう作るか自由なら、より自分が前に進める意味を作り出してもいいんじゃないか。

ということです。


だから最近はこう思っています。

「事故にあったことは本当に不運だった。でも自分があの絶望的な状況から生還できたのは、まだ何かやるべきことがあるからなんだろう。それが何かはまだ見つかっていない。だけど、それを見つけるために、見つけた先で力を発揮できるようしていこう。そのためには今やれること、やるべきことに集中していこう。そうやって進んでいこう。」

進むことが苦しくて、辛いときももちろんある。そういう時はちょっとだけ前にズレる。後ろに下がっていなければいい。立ち止まっていなければいい。

そうやって進んでいこうと思います。
生きていた意味を探す旅はまだまだ続く。。。。

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