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関係性を紡ぐ

たまれ万博が終わり1週間が経とうとしています。
万博以外でもバタバタしていてnoteやawaiFMの発信もちょっとサボっていましたが、また今日からやっていきますので宜しくお願いします!

さて、今日は5月26日(日)に立教大学で開催された「ソーシャルデザインフェス」についての振り返りを簡単にしようかなと思っています。

ソーシャルデザイフェスは僕が修了した立教大学大学院 21世紀社会デザイン研究科(現 社会デザイン研究科)の修了生が中心となって行っているイベントで、僕は去年から関わらせてもらっています。

フェスの目的は「多様なバックグラウンドを持つ人々と、共通の興味や課題について情報交換やディスカッションを行い相互理解を深め、さらには各分野の専門知識やスキルを共有し合い、協力関係を築くための場」です。ソーシャルイノベーション領域だけではなく、アカデミアやビジネスの領域の方などさまざまな背景を持つ方たちに参加いただいています。

そして、今回のソーシャルデザインフェスは「関係性を紡ぐ~わたし、あなたが、行きかいまじわるその先で~」というテーマで開催されました。

「関係性」って言葉は結構聞き慣れているかもしれないけど、いざ「関係性ってなに?」って聞かれると答えられる人って少ないと思うんですが、ちょっとだけ僕の考えを書いておきますね。

「関係性」を考える上で、考えておきたいワードは「関係」です。この違いはというと、「関係」は静的な状態を表していて、例えば人と人との「関係」というと、友人、家族、恋人であるという状態です。つながりとか接点と言い換えても良いかもですね。

一方、「関係性」はというと、動的な状態を表していて、「人と人の関係性 」というと、友人、家族、恋人である状態の距離や深さ、親密さみたいなところでしょうか。こちらの方が抽象的かもしれません。

この「関係性」について、映画『人生フルーツ』上映会やパネルディスカッションを通じて、参加者のみなさんと一緒に考える機会をつくりました。


僕は去年に引き続き司会を務めさせていただいたのと、さらにパネルディスカッションにも登壇しました。ゆるーい司会進行が好評だったとかそうでないとか笑。

僕が登壇したパネルディスカッションのテーマは「人と人とが持ち合う場を今、作り、続けるということーコモンズについての対話」ということで、また難しい内容ですよねぇ。

ほぼノープランだったので、モデレーターの中村先生(立教大学名誉教授、東京大学大学院情報学環特任教授や一般社団法人社会デザイン・ビジネスラボ代表理事)に全てを委ねました笑。

中村先生は池袋で本を起点としたソーシャル・インキュベーション拠点HIRAKU IKEBUKUROという場の運営もされています。僕が連載を担当しているブルーブラックマガジンを運営する、株式会社ブルーブラックカンパニーの代表でもあります。

他にも素敵な方々と一緒で、一人は立教大学のすぐ近くで「ニシイケバレイ」のオーナーを務める深野弘之さん。

もう一人は、今回のフェスの運営メンバーでもあって、西荻窪で「okatteにしおぎ」のオーナーを務める竹之内祥子さんと一緒に登壇しました。


ちょっとコモンズについて整理しておきましょうか。

複数の人間で共用し合う場所・空間・資源のこと。もともとは中世イギリスの牧草地や日本の入会地のように、村人が共同で管理し、牛を放牧したり、樹木やキノコ等を採取する共有地やそこで共有される資源を指す。

共有地のため、共用する資源を維持するために労力の提供など、なんらかの犠牲を払うことなく、資源を自分の利益を最大にするためだけに利用しようとする人(フリーライダー)が問題になっていて、コモンズの資源を収奪することによって資源が枯渇してしまうことをコモンズの悲劇と表現したりもします。

登壇者それぞれがコモンズを運営しているということもあって、「人と人とが持ち合う場を今、作り、続けるということーコモンズについての対話」というテーマを設定しました。

さまざまな議論がありましたが、ここに書くとかなり長くなってしまうので、会場からの質問で時間の関係上答えられなかった内容をここであげておくことにします。

意図せずコミュニティの破壊者となってしまう「問題児」は、管理者によって排除されることで教育される(自己改善を求められる)ものとして関係性ある社会の全体像には包摂されているのでしょうか?

すごく強い言葉が入っていますが、まずは「コミュニティの破壊者」から整理する必要がありそうですよね。質問者が「破壊者」をどのような意味合いで使っているかが気になりますが、僕は「コミュニティの破壊者」は賛成派です。

「破壊」という言葉は使っていませんが、「壊す」という言葉はよく使います。コミュニティ内の関係性が深くなったり、距離が近くなると、同質性が高まるという考えがあって、このようなコミュニティは他所者に対しては排外的になると言われています。「たまれ」はこの逆の考えをしていて、むしろ定期的に他所者が来てノイズを入れての欲しいという考えです。

この他所者を受け入れるのもなかなか難しくて、いきなり中に入ってもらってもみんなびっくりしちゃうから、「たまれ」では縁側(ウッドデッキ)があったり、フラットスタンドがあったりして、「うち」と「そと」の間に縁側という「なか」があります。ここで他所者と関わることで、少しずつ「うち」と「そと」の境界線が曖昧になっていく。すごく雑に書いてしまいましたが、そんな感じです笑。

質問に戻ると、「管理者によって排除される」というもの強い言葉ですよね。排除しても良いと思うんだけど、排除した後にその人はどのようになるのかを考えた上で排除することが大事かなと思っています。

その人が破壊者で、自分たちのコミュニティには合わないと分かった時に、じゃあその人は何を求めているんだろうかと考えられることが大事で、それがないまま「嫌だから排除する」というのは、社会デザイン的ではないかな。うちじゃなかったらどこに合うんだろうと考えた上で排除するという感じでしょうか。

質問者さんは「排除されたのちに関係性ある社会の全体像に包摂されるのか?」と言っていますが、この考えがあれば包摂されていくんだろうなと思います。

なかなか、文章で伝えるのは難しいですねぇ。

今回は簡単な報告ってことで、このへんで終わりにしておきます。
雑に終わりにしてごめんなさい笑。
来年も実施する予定ですので、興味ある方はぜひ参加してくださいね。

では、またー。


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