【短編小説】走れ、ルドヴィカ! 1778年(8歳)

 喜劇が始まったのは、彼女がまだ8歳の頃だった。
「イヤよイヤよイヤよイヤったらイヤッッッ!! 何であたいがそんなコトしなきゃなんないのさっ! このバカ親父!」
 故郷のボンからやや離れた都市、冬のケルンのうら寂しい宿屋の一室で、ほろ酔い加減の父親に追い掛け回されながら、黒々としたぼさぼさの髪を振り乱し、太い眉、大きな獅子鼻の周りにソバカスの浮いた背の低い少女が、少女らしさの片鱗も見いだせないアルトのだみ声で叫ぶ。そんな彼女を乱暴にひっ捕まえて、酒臭い息でこの娘の父親が言った。
「開演まであと1時間だ。つべこべ言わずにさっさとこの服を着るんだ。この馬鹿娘!」
 父親が手にしていたのは、男物の服と、既に髪粉がたっぷりと振りかけられた少々時代遅れなカツラだった。
「やだやだやだ、あたい絶対にやだ! そんな服なんてイヤ、カツラもイヤ! それにピアノなんて嫌い、大嫌いっ! みんなの前でなんか絶対に弾くもんか! あたしはモーツァルトじゃないの! 神童なんかじゃないっ!」
 だがしかし、まだ6歳だったかのモーツァルトが、父親に連れられてヨーロッパ中を回りながらその天才的なピアノ演奏を披露し、各地で『神童』ともてはやされていた衝撃的な出来事は、未だこの父ヨーハンの記憶に新しかった。要するに、金と名誉と酒の勢いが成した暴挙である。娘の抗議を聞いてやる素振りなど寸とも見せず、既に印刷済みの演奏会のパンフレットを小脇に抱え、珍しくめかし込んだ父が、ルドヴィカのぐしゃぐしゃの頭を押さえつけ、無理矢理カツラを被せて、言った。
「いいか、今日からお前はルドヴィカじゃない、『ルードヴィッヒ』だ!」

つづく

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