【掌編小説】恋文の真相~ベートーヴェンの手紙

私の天使、私のすべて、私自身よ。
きょうはほんの一筆だけ、しかも鉛筆で(あなたの鉛筆で)書こう……
「不滅の恋人へ」

 彼女はおもむろに、彼の散らかりきった部屋の床から、適当な紙と使い古された鉛筆を発掘し、言った。
「ほら、マエストロ」
「何だ、これは」
 突き出された紙と鉛筆を思わず手に取りながら、マエストロと呼ばれた男が楽譜から目をあげる。
「ラブレターの練習用紙よ」
「何だって?」
 彼女の名前はジュリエッタ。彼が今まで教えてきたどの弟子にも引けを取らない美貌を誇る、貴族の令嬢である。
「何で私がそんなモノを書かねばならんのだ」
「マエストロっていつも、女性にフラれてばっかだそうね? そのままじゃいつまでたっても結婚できないわよ。もうすぐ花も恥らう40代でしょ? ちょっとはオンナを上手に口説き落とす練習くらいしたらどうなの?」
 花も恥らう、という形容詞を、30代も終わりに近づいてきた、この我ながらむさ苦しい男に使うのはどうかと思いつつ、男は眉を寄せる。
「…………どこでそんなことを聞いてきた」
「近所の人が皆で言ってたわ」
 男が思わず一人ごちた。
「26回目の引越しの準備をしよう」
 ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン。住所は「ウィーン市内」。郵便屋泣かせの住所不定の音楽家であり、年中無差別に雷鳴の様な轟音でピアノを奏で、引越し先の大家さんを騒音で苦しめ抜くことで有名な、「悪魔の指を持つピアニスト」である。
「で、練習! はい、ちゃんと書いてちょうだい」
 ジュリエッタが、ばたんとピアノの蓋を閉める。
「私の指を殺す気か」
「たまにはその指も、ピアノの鍵盤なんかよりも、もっと有意義なモノに滑らせて見たらどうなのよ」
「有意義?」
「艶やかなものはピアノの鍵盤だけだとお思い?」
 そういえば、世間様ではもう既に、この厄介な女弟子と自分の間に、情熱的な恋の噂が流れているらしい。そんなことを考えながら、ルードヴィッヒは溜息をつく。
「女は嫌いではないが、厄介事は嫌いだ」
「甲斐性なし。レッスン代払わないわよ」
「何でそうなるんだ。この金と色気だけしか持ち合わせのない貴族令嬢め」
「はいはい。そんなに顔をしかめてると、老化現象が早まるわよ。金も色気も持ち合わせのないマエストロ。悔しかったらちゃっちゃと一筆書いてちょうだい」
「…………その手紙をあとで、どこぞのサロンあたりで見せびらかして、『これ、あのベートーヴェン先生から貰ったの』とか自慢するつもりじゃないだろうな」
「馬鹿言わないでちょうだい。あ、でも、それもいいわね………」
 ピアノの蓋を片手で押さえたまま、ジュリエッタが笑う。そして、紙と鉛筆を後ろにほうり投げようとしたルードヴィッヒの手をはっしと掴む。
「はい。書き出しは本日の日付からよ。よろしく」
 観念したルードヴィッヒが、閉じられたピアノの蓋の上に両手を戻し、聞いた。
「今日は何日だ」
「7月の6日よ」
「『7月6日、朝………』」
 しぶしぶ、投げやりな文字で書き始めた彼の隣で、満足そうにそれを見やってから、
「そうねえ………『私の天使!』なんて書き出しはどう?」
 大げさな身振りで、ジュリエッタが笑う。
「私の天使になろうなんて心の広い女がこの世にいるとは思えんが」
「私だってそうは思わないわよ。たとえ世の中がどんなに広かろうが、女にだって選ぶ権利はあるんだから。こんなむさ苦しい男に抱かれるくらいだったら、まだナポレオンの方がマシね」
「ナポレオンだと?」
「権力を持った男は好きだもの。権力を持っている間だけならね。それに、フランス男は情熱的っていうじゃないの。ま、あの男は所詮コルシカ出身だって話だけど。チビの田舎風情が権力持って調子に乗って伊達男気取ってりゃ奥さんにも浮気されて当然よね。ご愁傷様だこと」
 何故こんな弟子と自分との間に、恋愛関係の噂が立っているのだろうか、と心底げんなりしながら、ルードヴィッヒは書きかけの練習用紙に目を落とす。
「で、続きは………そうねえ、ちゃんと自分で考えてちょうだい」
 ラブレターの常套用語を考えつつ、
「次はこうか? 『私の全て』」
 ルードヴィッヒは、彼女の差し出した鉛筆で書き記す。
「で、『今日はほんの一筆だけ、あなたの鉛筆で書こう』………」
 ジュリエッタがそれを覗き込んで、
「あら、まあまあね」
 したり顔で批評し、言った。
「もう少し丁寧な字で書きなさいよ」
 ルードヴィッヒが鼻を鳴らしてから答える。
「面倒だ。で、次は……そうだな。『こんなことで時間を費やすとは、何と言う時間のムダ使い』………」
「ちょっと! 仮にもラブレターに、何てこと書いてるのよ」
「出す相手もいないのに、こんなモノが何の役に立つ?」
 紙をくしゃくしゃに丸めて捨てようとするルードヴィッヒの手を止めて、
「いつか出せばいいのよ、いつか。広いこの世の中に生きながらえていれば、あなただけの恋人になってやろうって女も、そのうち、きっと、多分、いつか、もしかしたら、出てくるかも知れないじゃないの」
 先程とは矛盾した事を言いはじめる弟子に、彼は言い返す。
「何だ、その、限りなく可能性の低そうな言い方は。いい加減にしないと、ここからとっとと追い出すぞ」
 だがしかし、そのしかめ面も、海千山千のウィーン社交界を渡り歩いてきた、この貴族の令嬢には全く通じない。
「その可能性をちょっとは上げてやるためにも、今から練習しておくにこしたことはないじゃないの。色気と金を持ち合わせた可愛い女弟子が直々にレクチャーしてあげようっていうんだから、ありがたく受けときなさいよ」
 怒るよりもむしろ呆れかえって、ルードヴィッヒは、いつも猫の様に気まぐれなこの弟子を睨む。そんなことも意に介さずに、ジュリエッタは笑いながら続けた。
「はい、次は………そうね。『私達の愛は』ではじめましょ」
「『犠牲によってしか成り立たないのでしょうか』。そうだ、まさしく時間の犠牲だな。ピアノソナタが三曲は書きあがるぞ………」
「何言ってるのよ。遅筆で有名なクセに。しかも字が汚いもんだから、いつも写譜師が四苦八苦してるって聞いたわよ」
 眉をしかめながら、頭の中から文句をひねり出し、紙に乱雑な字でそれを書き綴っていた彼が、そのまま鉛筆を手に答える。
「そうか。では、『私達はこんなにも苦しまなくてすんだでしょう』」
「写譜師だけじゃなくって、オーケストラの皆からも煙たがられてるそうじゃないの。完全主義者だとかどうのって」
「演奏家として当然の事を言っているだけだ。………そうだな、『愛とは、全てのことを当然の事として要求するものなのです』」
「なかなかやるわね。わがままなこと言っちゃって」
 そこに、教会の鐘が鳴る。
「ああ、もうこんな時間なのね。帰らなきゃ」
「随分と早いな。大歓迎だが」
「昨日の大雨で道がぬかるんでて、駅馬車のルートが不通のままなのよ。あのエステルハーツィ侯爵も昨日、八頭立て馬車でぬかるみにはまって立ち往生したそうよ。四頭馬車の別ルートで帰らなきゃ」
「成る程。私はどこへ行くにも歩きだから関係ないな」
「貧乏市民ですものね、マエストロ」
「さっさと帰れ」
「ま、つれないお方ですこと。じゃあ、ラブレターは明日までに書いておいてちょうだい。宿題よ」
「知るか」
 何故この歳になって、しかもまだ歳若い女弟子から「宿題」を出す様に強要されているのか。眉間に深い皺を寄せて思わず呻くルードヴィッヒに、彼女は言ってのける。
「今月、苦しいんじゃなくって? レッスン代を減らしたくないでしょ? 貴重な収入源なのに」
「………」
「最近、退屈してたとこなのよね。たまにはこういう遊びにも付き合ってちょうだい。じゃあ、帰るわ!」
 そして、丸で色鮮やかな蝶の様に、ひらひらと手を振って、美しい声で鼻歌を歌いながら歩き去っていったジュリエッタを見送って、彼は思わず呟いた。
「やはり、引っ越すべきだろうか………」
 そして、手元の紙を見る。そして、溜息を深々とつく。
「まあいい。あの馬鹿弟子をもってして、文句の一つも言えなくなるような最高傑作を書いてやるとするか……」
 ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン。彼がこの時書かされた恋文が、200年の時を経て、世界中の音楽研究者達を悩ませることになるとは、誰も知る良しがない。


※ベートーヴェンの有名な「不滅の恋人」の手紙内容を元にしたオリジナル創作です。もちろん想像に基づいた作品ですので悪しからず。1話完結。昔サイトで公開し、更にはpixivに投げていたものを引っ張り出してきました。

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