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38歳になりまして 前編

ご挨拶

古賀章成です。自動車開発テストドライバーという仕事をしています。誕生日が昭和60年5月23日で、先日38歳になりました。こっっわ!!!

37歳になった去年、そのとき思ったこととか、そのとき思った抱負とか色々書いてました。

この1年

去年の今頃は、ちょっと焦っていたんだと思う。じゃあ今焦りがないかというと嘘になるけれど、あの頃よりは少し地に足がついた生き方ができている感触があって、本当はもっとYouTubeとかInstagramでバンバン新しいことや面白そうなことを発信する人になりたい、ならなければと焦っていた。まぁ、本当はやらなきゃいけないことだから、この一年、簡単にいうとあんまりできていなかったという事実から目を背けてはいけないのだが笑

ただ、この一年で大きく変わったことが2つある。出会いと別れだ。

まずは出会いの話をしたい。

東京から地元の三重県に拠点を移して、西日本にもサービスを…と、外向きには謳って入るものの、そうそう簡単に大口の案件がいくつも飛び込んでくるわけでもないし、来るとしてもそれが決まるまでは案件が大きければ大きいほど時間がかかる。つまり、日々の生活とでっかい仕事をするための活動資金を、創業資金融資などで借り入れることなくWワークでやっていくことにして、今はモータースポーツの聖地鈴鹿に本部を置く、レッカー/レンタカー事業を取り扱うクルマ屋さんに籍を置かせてもらって、色々自分の展望も受け入れてもらった上でフレキシブルに働かせてもらっている。

そんな中で、去年の年末くらいから、自分の担当エリア(ひとりだった)のチームに、28歳と23歳の若者が入ってきてくれた。彼らと過ごした半年で、彼らにぼくが持っている知識や仕事の仕方(MAZDA時代も含む)を、毎日当たり前のように話し、やってみせ、ぼく自身も中型免許をとって積載車(クルマを運ぶコトができるトラック)やマイクロバスを運転できるようになり、そういった背中を見せることで彼らも中型の免許が欲しくなったみたいで、今、教習所に通っている。

クルマを運べるって、便利なんですよ。
雪の中にだって、助けに行ってあげられる。

そんな彼らは、細かい商品知識(輸入車の例外的な対処法とか、マニアックなエンジンやサスペンションの仕様とか)でいわゆる”オタク”的なお客様からの個人的な質疑応答がない限り、一般的な業務においてはもうぼくのスピードを超えつつある。洗車、点検、修繕、事務手続き、配送対応、点検車検対象車両の選定から入庫先のレコメンド、どう考えてももうぼくよりレベルが高い。もちろんいざとなったらぼくが力づくで片付けるんだけど、この半年間で、強力な若い人材の育成に成功した。これは、ぼくの中での想定外の大きな成果だ。

別れの話もしなければ。〜後輩との別れ〜

37歳、ロケットスタートで11月までは絶好調だった。東京遠征は大成功、西日本への拡大も大成功、続いて北海道へ、、、と、北海道でのイベントの真っ最中に、マブダチの訃報を受け取った。電話の向こうで共通の友人が、「落ち着いて聞いてくれ。あいつが、逝ってしまった。癌だったのは実は聞いてたんやけど、悪くなって1週間やった。ほんまに死んでしもうた。」と、目の前に広がるイベントの幸せな光景と、耳に物理的に入ってくる音とそれが持つ情報の整合性の取れなさに、黙ることしかできなかった。

クルマの顔が可愛いんだって。

イベントの主催者と、そっちでのダチに事情を話して、急遽、伊丹に飛ぶことにした。その北海道のダチは、航空券の株主優待券を財布から無造作に取り出して、「それやるから、行ってこい。」と、送り出してくれた。

亡くなった彼は、大阪の人間だった。予定していたセントレアのチケットを破棄して、伊丹に降り立ったが、情報が少なすぎてできることはなく、色々話を総合して、一旦実家の三重に戻ることにした。

できる事といえば、写真を集めてご両親に送ってあげることくらいかと思って必死に色んな人に声かけて、自分のデータフォルダもひっくり返したが、7年ほど前に一緒に北海道旅行した時の数少ない、カニを貪り食ってる数枚しか残ってなかった。

あいつが好きだったゲームをVRで交代しながら夜遅くまで。

あれからおよそ半年が経って、ようやくご両親とコミュニケーションが取れるようになった。だから、コロナのめちゃくちゃも少し収まったから、改めてお墓参りに行きたいと思っている。何せ無念にも程がある。彼が何をした、一流の企業の一流の健康診断を受け、一流の病院に入っていながら、なぜ、、、じゃあ元気なうちに俺は彼になにをしてあげたらよかったのか、考え出すと、悔やみきれない。

実はこのような別れは初めてではなく、数年前に、後輩の女の子を亡くしている。ぼくが亡くした、みたいな言い方になると変だが、救えたかもしれないと、楽しそうに笑う顔が今でも夢に出てくる。クルマの運転が脅威的にに上手な女の子だった。クルマの声が聞こえるタイプのドライバーだった。彼女には特に教えなくても、ぼくが運転した次の瞬間にはぼくの動きをコピーしていた。センスのあるドライバーって、ああいう人を言うのだろうと思った。まぁクルマのことなんてどうでもいいけど、ペーパードライバーの状態からドライブをあそこまで楽しめる人は稀有で、惜しい人を亡くした。もっと一緒に、仕事をしたかった。

逸材。

〜近所の憧れのじいさんとの別れ〜

いつかくると思っていた。そして、その時がきても自分が外から何を言われようとも、どうするか決めていた。ただ一つ、彼から受け取った言葉があって、これをひとりで抱えてても彼が望む未来は来ないからここに綴りますけれども、それは、

こんなに喜ばれる、全く新しい何かを、古賀さんは作るんですよ。

と言う言葉だ。いいクルマでもない、わかってもない、全く新しい別の何か、そしてそれを明日から一緒に考えるという。そして彼は、疲れたから部屋に戻るねと、送って行った先のホテルの部屋に嬉しそうに入っていった。

クルマのくせに、ココロを動かすやつがいる。
向き合うもよし、集まるもよし。世界屈指のクルマカルチャー。

そして5月、

祖母との別れ

95歳、これ以上ない人生だっただろう。しかし彼女はシティーガールだったので田舎の暮らしはキライで、いつも文句ばかり言っていた。孫にしてみれば「大人なんだから諦めなよ。」くらいに思っていたが、今のぼくならわかる、

東京に暮らすのがイケてるに決まっている。

三重の片田舎引越ししたのはさぞ不本意だっただろう。ぼくの東京好きは、彼女からのDNAレベルで受け継がれていることを最近薄々感じていたのだが、もう間違いなくそれである。

今流の 家族葬 心地よかった。
コースターではなくシビリアンな理由があった。
直6のガソリンエンジン。アイドル振動なくて感動した。
そう言うことか!!っていうね。プロだね。

後編へつづく

人の命の終わりと、これからを強く生きていく人生の話と、対極にある内容を綴るにあたって、もう少し時間が欲しい。

尚、様々なところで仕事が止まっていてすみません。キャパオーバーで、返さなきゃいけないメールも返せていません。催促ください。

また近々、後編を描きます。

と言うわけで、38歳になって、夢諦めたわけでなくて地に足つけて前進してますよ、っていう、ご挨拶でした。

ではまた。

自動車開発テストドライバー
古賀章成


古賀章成です。自動車開発テストドライバーという仕事をしています。主に、運転を苦手だと感じている人に、安心してもらえるような・自信をつけて楽しんでもらえるような練習の仕方やクルマの在り方を研究・開発しています。頂戴したサポート費は、テストや開発の経費として活用させていただきます。